高校一年生魯迅の「故郷」の分析文を書きました。分析7/8、構成6/8、言語6/8でした。何が足りないのか教えて下さい。文字数制限により結論無し「故郷」は魯迅が執筆した中国の社会を風刺的に批判する短編翻訳小説である。本作品では、貧困や落伍は単なる個人の不幸ではなく、社会構造の中で再生産され続けるものとして扱われている。以下では、貧困や落伍によって歪められてしまった登場人物の感性を分析し、「道」と「希望」という象徴が示す、個人の意思では超えられない社会構造に着目することで、魯迅がいかにして貧困と落伍の循環を表しているのかを論じていく。貧困や落伍がいかに人間の感性を歪めるかは、主人公とヤンおばさんの再会の場面で最も端的に表されている。ヤンおばさんは、かつての「豆腐屋小町」としての美貌や、その美貌から生まれていた心の余裕を失ってしまっている。百六十一ページ二行目に見られる、「忘れたのかい?何しろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね。」という彼女の発言からは、皮肉という形でしか自己主張のできない、彼女の貧しくなってしまった感性を見受けることができる。一昔前は美貌によって自然と注目を浴びることのできていた彼女にとって、年齢とともに失われていく美しさや人間関係、そして経済的余裕は耐え難い現実であった。こうした社会構造の中で、ヤンおばさんは追い詰められてしまい、ついには去り際に盗みを働くような人間になってしまったのだ。このヤンおばさんの変貌ぶりは、個人の堕落ではなく、社会による貧困や落伍の再生産であるということが分かる。こうした感性の歪みは、主人公と閏土の再会の場面においてさらに深刻化していることを示している。閏土はかつての小英雄としての面影をなくし、木偶の坊のような人間になってしまった。「作ったものを売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで。」という場面で、閏土は主人公と三十年ぶりに再会できたにも関わらず、自身の不幸の話をしている。本来、三十年ぶりの再会となれば、昔話をするなどが一般的であるが、閏土は白ける話ばかりをし続ける、社会的余裕を失ってしまった人間と化してしまっている。それに加え、閏土は父からは銀の首輪を授けられるほど大切に育ててもらったにもかからわず、自身はシュイションを「これ」と呼ぶなど、愛情の欠如が見られる。このように、閏土の例からは、貧困や落伍は再生産に留まらず、加速するものだということがわかる。閏土の父親たちの世代で、貧しさは「経済面」のみを指していたが、閏土たちの世代では、貧しさは人々の感性までをも蝕んでしまっている。ゆえに、貧困や落伍は再生産という過程をへて、より頑固となり戻ってきているということが読み取れる。これら二つの再会の場面は、貧困や落伍が人間の感性を歪めていく過程を示している。しかし魯迅は、この歪みが個人の意思によって修復可能なものではないことを、「道」と「希望」という象徴を通して示している。魯迅が「道」と「希望」という象徴を用いたのは、感性の歪みの元凶である貧困と落伍が再生産される社会構造を表すためである。百六十八ページにある「思うに希望とは、元々あるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」という一文において、魯迅は希望を自然に存在するものでなく、多くの人が望むことでやっと実現するものとして見ている。つまり、主人公の持つ希望も多くの人々が望むことで現実になり得るのだ。しかし、主人公が故郷で出会ったものたち、例えばヤンおばさんや閏土などは皮肉をすることで自身の人格を形成していたり、木偶の坊のようになってしまっていたり、と希望の片鱗はどこからも見受けることができない。一見すると「多くの人が望む」、という条件は簡単なように思える。だが、実際、希望を持てる者というのは非常に限られているのだ。すでに成功しているものは希望を持てるが持つ必要がなく、逆に社会的弱者は閏土やヤンおばさんのように希望を持ちたくても持つことができない。閏土やヤンおばさんは、今の生活にうんざりしているのにも関わらず、願う余裕すらも奪われてしまっているのだ。すなわち、真に希望を抱けるもの、というのは社会的強者にも弱者にも属さない、その中間に位置する主人公のような者だけだと言える。しかし、そういう者たちは、社会的弱者のように苦しみを経験していないため希望を強くは抱けない。このように、「道」と「希望」の象徴は希望が平等ではなく、社会により制限されているということを示している。その結果として、皆が希望を持てない社会では、貧困や落伍の悪循環が繰り返し再生産されていくのである。