エゼキエル書36章と38章を並べて読むことで見えてくる一貫性は、聖書の預言の調和を感じさせる非常に深い視点だと思います。ご質問にある二つの記述の関連性についてですが、これらは回復という一つの大きな流れの中にある「連続した段階」として捉えるのが、より文脈に即した理解と言えるでしょう。
まず36章では、神の名が清められるために、荒れ果てた地が「エデンの園のようになった」と評されるまでの劇的な回復のプロセスとその約束が語られています。35節の「廃墟となり、荒れ果て、崩されていた町々も、城壁が築かれ、人が住むようになった」という言葉は、民が霊的な荒廃から脱し、再び神との正しい関係に戻って再建されていく初期の勢いや、その驚くべき変化に焦点を当てています。
一方で、38章8節の「久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる」という描写は、36章で示された回復が現実のものとなり、ある程度の時間が経過して定着した段階を示唆していると考えられます。ここで「久しく廃墟であった」と振り返るような表現が使われているのは、侵攻を企てるゴグの目から見て、かつての荒廃した面影がまったくないほどに現在の平和な繁栄が際立っていることを強調する文脈が含まれているからです。
つまり、36章が回復の約束とその鮮やかな始まりを描いているのに対し、38章はその回復が実を結び、多くの国々から集められた民が「今はみな安らかに住んでいる」という、一段階進んだ安定した状態を描写しています。このように、二つの記述を「回復から平和な定着へ」という一連の時間の流れとして理解することで、エゼキエル書の預言が持つ重層的な広がりがより明確に見えてくるのではないでしょうか。