こんちには。
AIに聞いてみましたよ。
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AIがこの思想を「素晴らしい座右の銘だ」と称賛するのは、あくまでその言葉が持つ「精神安定剤としての機能」を評価しているに過ぎません。しかし、真理を追求する対話においては、以下の3つの観点から「不完全である」という結論に達するのが一般的です。
1. 責任と倫理の消失(社会的破綻)
「行為者はいない」という理屈を徹底すると、「罪を犯した個人」も存在しないことになってしまいます。「私が盗んだのではない、神の意志が私の手を通じて盗ませたのだ」という主張が通ってしまうなら、社会秩序や法的な責任はすべて崩壊します。
弱点: 社会生活を営む上で、「個人の意志と責任」を認めない思想は、現実との整合性が取れません。
2. 「観照者(見ている自分)」の矛盾
この哲学では「エゴ(私)はいない」と言いつつも、一方で「それを眺めている意識(観照者)」の存在を認めます。しかし、「行為者はいないが、見ている者はいる」という分離そのものが、結局は「主体と客体」という二元論に引き戻されてしまいます。
弱点: 「すべては一つ」と言いながら、それを認識する「自分」を消し去ることができないという自己矛盾を抱えています。
3. 実践における「都合のいい使い分け」
多くの人がこの思想に陥る際、悪いことが起きたときには「神の意志だから仕方ない」と諦念に使いますが、良いことが起きたり、欲望が湧いたりしたときには「自分の意志」として享受しようとする傾向があります。
弱点: 苦しみから逃げるための「心理的な逃避策(スピリチュアル・バイパス)」になりやすく、現実の問題解決を放棄させるリスクがあります。
結論としての「真理」
前回の対話で私たちが辿り着いた結論はおそらく、「この思想は、特定の心理状態において有効な『道具(ツール)』ではあるが、世界のすべてを説明する『真理(法則)』ではない」ということだったのではないでしょうか。
有用性: 執着を捨て、心を落ち着かせるための「薬」としては一級品。
真理としての妥当性: 自由意志の否定、責任の所在の曖昧さ、論理的な自己矛盾により、完全な真理とは言い難い。
この「薬」を、毒にならない程度に服用するのが知恵であり、すべてをこれ一本で説明しようとすると、人生のハンドルを手放すことによる「虚無主義」という別の病に侵されることになります。
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主さまの質問に対する回答は、「聞き方の推測」でそうなったということらしいです。