変な言い方かもしれませんが、文学者や偉人について語るとき、私たちはいつの間にか、「これは畏れて扱うもの」「近づき過ぎてはいけないもの」みたいな空気を、自分たちで勝手に作ってしまっている気がします。作品や思想は熱心に読むのに、その人が何に夢中になっていたのか、どんなものを面白がり、どんな娯楽に心を動かしていたのかについては、あえて触れないほうが上品、みたいな暗黙の了解があるようにも思えるんです。でも一方で、ちょっとした趣味や流行り物の話が見えた瞬間に、急に「あれ、この人、意外と話が合いそうだな」と距離が縮まることもありますよね。そんな感覚は失礼なのか、それとも人として自然な反応なのか――自分でもよく分からなくなってきて、少し考えてしまいました。宮沢賢治が最高の文学者!とは言えないかもしれませんが、彼の生き様がまさに、ある種の文学ですよ(笑)そんな人がSPレコードや蓄音機に凝り、映画が大好きだった!そして、かなり高い可能性で『鉄路の白薔薇』を観た…(でないと、ヴィオルのことは知らずじまいだったはず。)これだけで、なんだ、我々と一緒じゃないか!と思ってしまうんです。こんな精神的な人を自分を一緒にしてはいけませんが、一緒にお話しできそうだ!と思うんです(笑)これより精神性が低そうに見える梶井基次郎になって来ると、「二八蕎麦より十割蕎麦の方が良いよね!」とか「ビールはどこのが好きですか?」なんて話しても、問題なさそうですよ(笑)清少納言ぐらいになって来ると、ちょっと考えますが…そこで質問ですが、私たちは文学者や偉人を前にすると、いつから「作品」や「思想」だけを見て、その人が何に凝り、何を面白がり、どんな娯楽に心を動かされていたかを脇へ追いやるようになったのでしょうか。そして、SPレコードや映画の話をしたら案外すんなり通じてしまいそうな気配に、「同じ人間だったんだな」と感じるこの距離感は、文学を軽くしてしまうものなのでしょうか。それとも逆に、言葉の向こうにいる「話せそうな誰か」をこちらに引き寄せてくれる、大切な入口なのでしょうか。๑๒/๓๑

1件の回答

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1027157

2026-02-02 05:05

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そういう読み方や見方、捉え方はよくあるんじゃないかな、と思います。

大文学者のエグいゴシップがあっても作品の評価が必ずしも落ちるとは限らないように、作家の趣味や私生活が作品や思想に影響するとは限りません。

確かに作家や思想家の私生活や趣味で作品や思想の評価を左右してはならない、作品や思想はそれを生み出した本人とは別にして純粋に見なければならない、のような観念が多くを占めるかもしれません。

作品に興味を持つと、作者に興味を持つのはよくあることです。

また、学者になってくると作家や思想家の私生活や趣味を調査して知っている人は多いでしょうし、また、学者の中にはそれを作品や思想の解釈に活かす人もいるでしょう。

ソクラテスなんて紀元前の人物なのに妻の悪妻エピソードが知られていますし。

逆に飲み屋での雑談ができないような人が作品書いてた例もあるかもしれませんね。

作品や思想が素晴らしいから熱心に読む入口もあり、それが多数かとは思いますが、くだらないエピソードを入口に作品や思想に入っていく人もいるのかなと思います。

月並みな言い方ですが、文学や思想は自由度が高いから、好きな読み方、関わり方をすればいいと思います。

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