ちょっと何を言っているのか、わからないですね。
「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」(創価学会会則第2条「教義」)
この規定には、「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」とあるのです。この条文のどこをどう解せば、創価学会が「日蓮を 聖人 から 使用人 に してしまった」などという結論を導き出せるのでしょうか?
この世には様々な宗教がありますが、神など自分以外の外の者に救済を求める仏教以外の宗教と、自分の変革はあくまでも自分自身で行うことができると説く仏教に大別されます。これを比較すれば、仏教が勝れた宗教です。
また、仏教の中にも様々な教えがありますが、釈尊の悟りを直接説いた「法華経」が、仏教で最も優れた教えです。
さらに、法華経には、「釈尊は久遠の昔に成仏した」との記述がありますが、どのような法によって成仏したかは具体的に説かれていません。法華経の従地涌出品には、釈尊滅後の悪世に、釈尊に代わって法華経を流布する「地涌の菩薩」が現れる場面が描かれています。その具体的現れが、末法の日本(鎌倉時代)に出現した、日蓮大聖人です。
大聖人は、法華経の中に秘められていた法とは、「南無妙法蓮華経」であると覚知され、末法の衆生に流布されたのです。末法における法華経とは「南無妙法蓮華経」にほかなりません。よって、「南無妙法蓮華経」を末法に生きる我々に示された大聖人こそが、末法の我々にとっての御本仏となります。
「今、末法に入ったので、余経も法華経も無益である。ただ南無妙法蓮華経なのである。……この南無妙法蓮華経に、他の修行を交えるなら、大変な間違いである」(上野殿御返事、通解)と、大聖人は仰せになっています。
「この南無妙法蓮華経に、他の修行を交える」ことなく純粋に、大聖人の仏法を実践しているのは、この世では創価学会だけです。「我らこそ真の日蓮門下」と称し、「南無妙法蓮華経」と唱える宗派・教団が他にもありますが、そのいずれも、大聖人の仰せに違背しています。例を挙げれば、「別勧請」なる手前勝手な論理に基づいて、稲荷や大黒、七面山などを拝んでみたり、「法主は大御本尊と不二の尊体」「法主は日蓮大聖人の生まれ変わり」などと、大聖人の御書のどこにもない“オカルト”的信仰を提唱し、法主信仰を信徒に強いるような所もあります。「日蓮を 聖人 から 使用人 に してしまった」などという批判をするのであれば、このような宗派・教団にたいしてすべきなのです。
「日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(四菩薩造立抄)と日蓮大聖人は厳しく仰せです。大聖人の仏法を実践するにあたり、根本とすべきは「法」です。外見はどんなに伝統があって立派でも、大聖人の仰せに違背するようなことを説き、信徒を誑かすような教団で「南無妙法蓮華経」を唱えて信仰しようとも、功徳など一切ないのです。功徳どころか、悪道に堕ちる原因とさえなるのです。
このように、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、大聖人御書の仰せに忠実に従い、大聖人の仏法を信仰し、世界192カ国・地域にまで流布したこの世で唯一の団体である創価学会に、「日蓮を 聖人 から 使用人 に してしまった」などと愚にも付かない難癖を付けるのは、「うはのそらに・そしる程のをこじん(おこじん、鳴呼人)」(常忍抄)、つまり学会のことを軽率に謗る愚か者との誹りは免れないと知るべきなのです。