いえ、尊敬語が使われているから光源氏、なのではなくて、
「一所の御心の内」が、光源氏の「御心」だから、
主語は光源氏、なのです。
尊敬語が使われている、だけなら、
宮にも、部分的には御子にも、使われています。
話の流れ上、ここで「御心」の内の「あはれ〜契りかな」を思って涙を流すのが、光源氏でなくてはおかしいから、
主語は光源氏、なのです。
>最近敬語を勉強する意義が分からなくなっています。あんまり役に立たない気がして。
敬語に全幅の信頼を置きすぎなんです。
敬語法は、主語確定の(比較的重要な)一要素にはなっても、
敬語だけで全ての主語確定が解決するわけではありません。
他の要素も考慮に入れて、全体的な把握の末に、主語は確定するものです。
速く走るには腕の振りを大きくすることだ、とコーチに指導されて、
せいぜい腕の振りを大きくしたけれど、全然オリンピックに出られないじゃないか、
と言っているようなものです。
「それだけじゃダメ」なんです、当たり前だけど。
だからといって、「腕の振りを大きくすることになんか、何の意味もない!」と、腕を振りを敢えて小さくしますか?
今よりもっと遅くなるだけでしょう?
敬語が万能ではないからといって、敬語を勉強する意義まで見失ってしまったら、
主語確定のための「(比較的重要な)一要素」さえも失ってしまいます。
つまり、今よりもっと主語が確定できなくなる、ということです。
万能ではないとしても重要ではある、それが敬語法です。