室町時代には城下に家臣が集住することは一般的ではありませんでした。
京都なら多数の大名、その家臣、奉公衆などが住んでいましたが、全国的にみられるようになるのは戦国大名が台頭してから、国内統治の策として普及していきます。
また、性格的には主君が家臣に、城下に住むように強いている面もあり、力関係によっては実行できません。
それを実行できていたのは、たとえば守護大名を京都に常駐させていた足利将軍などです。そして都合が悪くなると、大名は自分の所領に帰ってしまいます。
毛利氏というのは安芸の一国人にすぎなかったので、家臣をみんな城下に住まわせるというのは、なかなか難しかったことでしょう。
もちろん執政クラスとされる坂氏ぐらいになると、毛利の居城あたりに住める屋敷は持っていたかもしれません。
しかし、当時の武士は、所領が分散しているうえに治安も悪いため、個々の所領を信頼できる一族や腹心に統治させることは常套手段でした。
そうなれば所領に住むことも当たり前になり、そして戦のときとか、在番という交替で出仕する勤めのために、所領から主君のもとにのぼってきます。
こうした慣習の中で、事情は不祥ながら桂広澄は桂村を自身の所領とし、そこで武家として働くことになります。桂城を築いたのは、そこで暮らし、所領を治めるための政治・軍事拠点とするためだったのでしょう。