ご提示いただいた「逆境においてこそ怒らない」という実践は、一見すると単純な道徳論のように見えますが、実は仏教の教えの核心に迫るものだと思います。
仏教において世界とは、自分の「外側」に客観的な実体として存在するものではありません。むしろ、自分の「心」と「認識対象」が相互に依存し合って形成されるものだと捉えられています。
たとえば、原始仏典であるパーリ仏典小部『ダンマパダ(法句経)』には、次のように記されています。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」
この「心こそがすべてに先立つ」という洞察は、後に大乗仏教の「唯心(ただ心のみ)」や「唯識(すべては認識の現れ)」にも発展していきました。
「相手が私を批判した」という出来事そのものが苦しみなのではなく、それをどう認識し、どう反応するかという心の動き(行)からこそ苦楽が生じる。これこそが、仏教が一貫して説き続けている世界の真理です。
もし、相手の批判といった外的条件によって自分の苦楽がすべて決定されるのであれば、私たちの生に自由はありません。批判された瞬間に苦悩に陥り、怒りが生じることが避けられない必然ならば、私たちの心は、他者に支配される「奴隷」と同じになってしまいます。
だからこそ、パーリ仏典の『鋸喩経』において、ブッダは次のように説かれました。
「たとえ盗賊たちが、両側に取っ手のついた鋸(のこぎり)で、お前たちの手足をバラバラに切り刻んだとしても、そこで心を汚し、怒りを抱く者は、私の教えを実践している者とは言えない。」
これは、どのような過酷な外的状況にあっても、心の制御こそが仏道の実践であり、解脱に至る道であることを説いているわけです。
「けなされてもニコニコできる」という姿は、単なる我慢を超えて、世界と言うものがどのようにして生じるのかという真理に目覚めた者の姿です。
外界の条件を変えることは不可能に近く、変える必要もない、自らの心を変えれば全ては変わるのです。
万物の根本である「心」を調御し、怒りを初めとする煩悩から解き放たれること。
これこそが、心が形成する三界からの解脱という、原始仏教から大乗の唯識思想に至るまで通底する、仏教の究極の目的であると言えるでしょう。