私たちは普段、「見ている」「評価している」「分かっている」とわりと気軽に言います。あたかも、目の前の物がそのままこちらの目に飛び込んできているかのように。でも実際には、何かを見るという行為は、無数にある側面の中からどれか一つ、あるいはいくつかを選び取り、そこだけに光を当てる作業なのかもしれません。そして、その光が強ければ強いほど、照らされなかった部分は、あたかも存在しなかったかのように静かに闇へと退いていきます。「何を見たか」よりも、「どう照らしたか」。その選択の癖が、いつの間にかその人自身を語ってしまう――そんな気もするのです。ところで、大昔、Oso del Circoというペンネームで工場で張り紙を書いてました。大一作は「光(ヘッドライトみたいな)は、前にある物を照らし出すというより後ろにある物を隠す。」でした(笑)物には複数の側面があり(側面も割り切れませんが)、1の側面だけに着目すると、他の側面は消えます。どんな物に、どの側面に着目するか?これで性格まで現れます(笑)あるブランドバッグが良い!革が好きで、このブランドはすばらしい革を使ってるのか、デザインや造りが好きなのか、これエルメスだぞ!と言いたいのか?これで同じ物を持っても、すべて違って来ますよね(笑)そこで質問ですが、私たちは「物」を見ているつもりで、実際にはその物そのものではなく、自分が選び取った“照らし方”だけを見ているのではないでしょうか?そしてその照らし方――どの側面を光に当て、どの側面を無意識の闇に押し込めているのか――それこそが、評価や好み、さらには性格や価値観までを雄弁に語ってしまっているのではないでしょうか?もしそうだとしたら、私たちが「これは良い」「これは好きだ」と言うとき、本当に語っているのは物の話なのか、それとも、その物を通して浮かび上がった自分自身の姿なのか。私たちは、いったいいつから物を評価しているつもりで、自分の見方を告白するようになったのでしょうか?๑๒/๓๐

1件の回答

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1172457

2026-01-06 07:25

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正直言って、

人間が「物を見る」のは難しいと思います。

なぜなら「見え過ぎる」からです(笑)

「物」を見てるはずが、見えるのはそれがもたらす「副産物」だったり

しませんか?(先走りするんですよ!)

なので「物を見る」と言いながら「副産物を見る」ことに完全に慣れ、

それが「物を見る」ことだと思い込んでるんです(笑)



「エルメスはすばらしいブランドだ!」と言ったとしても、

本当は「これで私の注目度が上がるわ!」だったり…

これが周囲にバレただけで「あの人、あんな人なんだ」と思われたり

もしますよ(笑)



うちに遊びに来るハシボソガラスの夫婦を見てると、思うんです。

彼らは縄張りと巣以外、何も所有してません。

服も着てません。

ネックレスも指輪もしてなければ、地位も名声もありません。

いつも、キャットフードとチーズと豚コマを食べ、幸せそうです。



なので、メスが近くに寄って来て、餌をねだるのを見るだけで、

健気なヤツだ!と思います(笑)

肉が一切れ多いと、いつもより満足そうです。

(最低の豚肉ですよ!)

これに対し、人間は、はるかに進化してると言えます。

服も着るし、指輪もするし、バッグも持つし、車にも乗るし、

旅行もすれば、テレビや映画も観るんです。

酒も飲みます。



ハシボソガラスだって、あまりに近くに寄って来ると、

「おお、今日はお腹が空いてるんだな」とバレます。

自分の見方を告白してるのと同じです(笑)

人間の場合、これよりも付帯物が多く、複雑になってるだけではない

でしょうか?

なので「いつからこんなことが起きてるのか?」と言えば、

サルが裸になった時から、もしくは、それより前、

オスがメスや群れの前で力を誇示した時から、ではないでしょうか?

もしくは、メスがオスの気を引いた時から、では?

もしそうだとすると、猿の前の段階でもこれはあったでしょう(笑)



見え過ぎる目、考え過ぎる頭を持ってから、これは著しくなったと

言えるでしょうが、これをなくす可能性もまた人間にはあると

思ってます。

ただ、そうすべきか、すべきでないか、あるいは、それをする必要が

あるか・ないかは私にはわかりません。

うったえる有益だ(0シェアするブックマークする

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