吉野鐵太郎が北海道で活動していた時期は、幕末の安政年間(1858年頃)から明治初期にかけてです。
彼が七重村(現在の七飯町)で薬園の管理や「赤松街道」の整備に尽力していた頃、北海道全体の人口は現在の水準とは比較にならないほど少なく、約6万人〜12万人程度でした。
当時の人口推移と背景をまとめると以下の通りです。
1. 吉野鐵太郎の活動時期と人口
* 幕末(1858年頃):約6万人程度
吉野が江戸から「七重薬園」の園丁長として招かれた安政年間、北海道(当時は蝦夷地)の和人人口は約6万人ほどだったと言われています。その多くは函館や松前などの道南地域に集中していました。
* 明治5年(1872年):約12万人
明治政府による初の公式な人口調査(明治5年戸籍)では、北海道(開拓使管内)の人口は121,172人と記録されています。
2. 当時の人口の特徴
* 道南への集中: 人口の大部分は函館周辺に固まっていました。明治2年時点で函館の人口は約1.9万人であり、全道の約15〜20%が函館にいた計算になります。
* 急激な増加の始まり: 吉野が赤松の植樹などを行った明治9年(1876年)以降、屯田兵の入植や開拓政策が本格化し、人口は爆発的に増えていきます。明治19年(1886年)には約30万人にまで達しました。