要は「私」という「風船動物」の中で(肌の内側で)何が起きてるのか、
どんな感覚の波紋が広がってるのか?
だと思います。
「私」は視覚に頼りがちですが、世界は視覚で捉えられるものだけで
出来てないです。
聴覚、嗅覚、味覚も関与してるし、この波紋を捉える(体内)触覚が
最重要だと思います。
なので、視覚で切り取った1つのシーンと思えるものを「1つ」と
便宜上言ったとしても、それが本当に「1つ」なのかは大変怪しいと
思います。
外界には目に見えず、肌で感じられるだけのものもあります。
例えば、比喩になる前の「暖かさ」とか「臭い」は視覚イメージでは
ありません。
この様な知覚の話は、視覚で説明するのが一番簡単と思われるので、
私などそうしますが、本当は、すべての感覚が関与してる!と
考えた方がよさそうです。
「私」が出来事を単に見た時、まず、網膜上に視覚イメージが映ります。
この網膜とは直径2.5cm(厚み0.1~0.4mm)の皮みたいな物です。
「網膜のスクリーン」と言いますが、こんなに小さい物が2つあるだけ
です(笑)
そこに「私」が見る世界すべてが映るんです。
ちなみに、鼓膜は長径9mm x 短径8.5mm(厚み0.1mm)の皮で、
こちらも2つあります。
ここで起きる振動が「私」が聞いてるすべてです(笑)
鼻の穴の中も似た様なものでしょう。
視覚イメージも聴覚イメージも、舞台はこんなに小さいんです。
しかし「私」は、これをすごく大きなものと認識するんです。
これに対し、味覚は舌の先だけの感覚ではありません。
最初は舌の先が何か感じても、口の中全体や喉、やがてはからだ全体に
広がる波紋です。
その大元である触覚となると、肌の表面全体、裏側、内部にあります。
面積だけですべてを決めるのは早計ですが、しかし、90%以上は
感じる肌である!と言っても過言ではないでしょう。
なので「私の90%は感じる肌である」と言っても「私は目である」と
言うよりはマトモなこと言ってることになりそうです(笑)
「見る」は「舌先で味を感じる」と似てないこともないです。
網膜がいかに小さくとも、視覚イメージは「私」に何かを訴えます。
「私」は「見る」に専念するのでなく、見たら「感じる」のです(笑)
網膜上のイメージがいかに小さくとも、「私」の中に広がって行く
その波紋は、そんなに小さくないんです。
なので「私はあれを見たよ」と友達に告げる時、
本当は「面白かったよ!」とか「すごく綺麗だった!」とか「あんな
醜いものはない!」と言う前の前書きに過ぎません。
つまり、どんな出来事も、ドラマも、視覚イメージで出来てる様に
思えて、内部触覚に訴えるものなんです!
網膜に映る像は、恐らく(人間が認知できる限りの)外界そのまま、
しかし、見た瞬間、「私」の中には何らかの動き(波紋)が生じて
しまってるんです。
その限りに於いて、像も出来事も「見たまま」ではないんです!
それを「もう1人の私」が「編集・翻訳」したと言うことはできると
思います。
>理解とは発見でなく、交渉や和解に近い行為
しかし、もし「もう1人の私」が外界や出来事を「理解」や「発見」
しており、「私」が「もう1人の私」と「交渉や和解」してるので
あれば、これはこれで「理解や発見」にならないでしょうか?
「そうはならないよ!」なんて言う人がいたら、その人は
「もう1人の私」と飛び越えてすべてを知覚してるんでしょうか?
もしもそうなら、それは人間でないと言えませんでしょうか?(笑)