私たちは普段、「見ている」「分かった」「理解した」と、ずいぶん気軽に言葉を使っています。あたかも、外界の出来事がそのまま網膜に映り、脳に届き、一つのはっきりした意味として保存されているかのように。けれど本当に、私たちが受け取っているものはそんなに整然としたものなのでしょうか。むしろ、見た瞬間には形も輪郭も曖昧なまま、あとから無数の物語や記憶や感情によって「それらしく」組み立てられているだけではないでしょうか。その過程で、いつのまにかもう一人の私が介入し、編集し、翻訳し、ドラマ仕立てにしているとしたら——。網膜の上で捉えてるのは「1つの物語」でなくて「1つの不鮮明な塊」。それは多数の物語で暗示されたり、1つの短い物語で朧げに暗示されたりするんです。そもそも物語は1つ、2つと数えられないんです。1つの物語と思ってたら、5つの小さい物語だった!とか2つの物語と思ってたら、1つだったとか…「伏線」という奴は、backgroundで沈んでるんですが、foregroundに見えて来たりもするんです。それ自体が1つの物語みたいに明らかになることも、どこかへ消えてしまうことも…暗示は階層的になってます。「おにぎりを食べてる汚い子供」は「可哀想」を暗示し、その「可哀想」はまた別のものを暗示してるんです。例えば、自分も子供の頃、アメリカ兵に\u0026quot;Give me chocolate!\u0026quot;と泣きそうな顔で言ってたよな、貧しかったんだよな…そう、戦争に負けたせいでああなったんだ。戦争とは一体何だったんだろう?1つの暗示から別の暗示に行くこともあれば、こんな具合に階層を昇る様に、暗示の奥へ奥へ行くこともあるんです。「伏線」とは1つと思われる大きな暗示の部分なんです。それを突き止めようとして「もう1人の私」がドラマを見せてくれるんです。これは寝てる時に見る「夢」と非常によく似たものなんです。「もう1人の私」はなんらかの意図があって、「私」にそんなドラマを見せるんです。「私」は、感じる「肌」に囲まれた「風船動物」です。でも、その「私」の中には、もう1つの「風船動物」が生じたんです。それが「脳」=「第二の肌」です。「大きな風船動物」の中にいる「小さな風船動物」です。それが「私」の実体か?というと、そうではありません。「私」の実体は、外側の「大きな風船動物」(体、心)です(笑)「小さな風船動物」(脳)は役に立つんです。複雑な計算などをしてくれるし、文を組み立てくれるんです(笑)なので、大事なんですが、別の動物みたいですから、言うことを聞いてくれるとは限らないんです。「脳」は「外の風船動物」の縮図です。「私」と「もう1人の私」とは切り口が違いますが、「小さな風船動物」もなだめすかして生きて行かないと…問題は、それぞれが違う言葉使いをすること(笑)「もう1人の私」の言い分に耳を傾けるとは、翻訳に似てないこともないと思います。そこで質問ですが、私たちは「何を見た」と言うとき、本当に見ているのは外界の出来事なのでしょうか?それとも、暗示が階層を行き来しながら、「もう一人の私」が編集・翻訳した一時的なドラマを見せられているだけなのでしょうか?もしそうだとしたら、理解とは発見ではなく、交渉や和解に近い行為なのではありませんか? ๑๒/๓๑

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1145750

2026-06-29 09:40

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要は「私」という「風船動物」の中で(肌の内側で)何が起きてるのか、

どんな感覚の波紋が広がってるのか?

だと思います。

「私」は視覚に頼りがちですが、世界は視覚で捉えられるものだけで

出来てないです。

聴覚、嗅覚、味覚も関与してるし、この波紋を捉える(体内)触覚が

最重要だと思います。



なので、視覚で切り取った1つのシーンと思えるものを「1つ」と

便宜上言ったとしても、それが本当に「1つ」なのかは大変怪しいと

思います。

外界には目に見えず、肌で感じられるだけのものもあります。

例えば、比喩になる前の「暖かさ」とか「臭い」は視覚イメージでは

ありません。

この様な知覚の話は、視覚で説明するのが一番簡単と思われるので、

私などそうしますが、本当は、すべての感覚が関与してる!と

考えた方がよさそうです。



「私」が出来事を単に見た時、まず、網膜上に視覚イメージが映ります。

この網膜とは直径2.5cm(厚み0.1~0.4mm)の皮みたいな物です。

「網膜のスクリーン」と言いますが、こんなに小さい物が2つあるだけ

です(笑)

そこに「私」が見る世界すべてが映るんです。

ちなみに、鼓膜は長径9mm x 短径8.5mm(厚み0.1mm)の皮で、

こちらも2つあります。

ここで起きる振動が「私」が聞いてるすべてです(笑)



鼻の穴の中も似た様なものでしょう。

視覚イメージも聴覚イメージも、舞台はこんなに小さいんです。

しかし「私」は、これをすごく大きなものと認識するんです。



これに対し、味覚は舌の先だけの感覚ではありません。

最初は舌の先が何か感じても、口の中全体や喉、やがてはからだ全体に

広がる波紋です。

その大元である触覚となると、肌の表面全体、裏側、内部にあります。

面積だけですべてを決めるのは早計ですが、しかし、90%以上は

感じる肌である!と言っても過言ではないでしょう。

なので「私の90%は感じる肌である」と言っても「私は目である」と

言うよりはマトモなこと言ってることになりそうです(笑)



「見る」は「舌先で味を感じる」と似てないこともないです。

網膜がいかに小さくとも、視覚イメージは「私」に何かを訴えます。

「私」は「見る」に専念するのでなく、見たら「感じる」のです(笑)

網膜上のイメージがいかに小さくとも、「私」の中に広がって行く

その波紋は、そんなに小さくないんです。



なので「私はあれを見たよ」と友達に告げる時、

本当は「面白かったよ!」とか「すごく綺麗だった!」とか「あんな

醜いものはない!」と言う前の前書きに過ぎません。

つまり、どんな出来事も、ドラマも、視覚イメージで出来てる様に

思えて、内部触覚に訴えるものなんです!



網膜に映る像は、恐らく(人間が認知できる限りの)外界そのまま、

しかし、見た瞬間、「私」の中には何らかの動き(波紋)が生じて

しまってるんです。

その限りに於いて、像も出来事も「見たまま」ではないんです!

それを「もう1人の私」が「編集・翻訳」したと言うことはできると

思います。



>理解とは発見でなく、交渉や和解に近い行為



しかし、もし「もう1人の私」が外界や出来事を「理解」や「発見」

しており、「私」が「もう1人の私」と「交渉や和解」してるので

あれば、これはこれで「理解や発見」にならないでしょうか?

「そうはならないよ!」なんて言う人がいたら、その人は

「もう1人の私」と飛び越えてすべてを知覚してるんでしょうか?

もしもそうなら、それは人間でないと言えませんでしょうか?(笑)

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