まあそもそも書籍や解説記事を参考にして説明するのでも、批判されたり、ボロクソにけなされることは非常に多いわけで、AIの回答を参考にして説明してボロクソに言われるのもそれと全く同じということです。
書籍や解説記事を参考にしたか、AIの回答を参考にしたかは、批判されるされない、ボロクソに言われる言われないというのは関係ないのです。
本人、書き手の実感や体感、体験をもとにした考えや意見、判断、分析でなければ、書籍を参考にしても、解説記事を参考にしても、AIの回答を参考にしても、全部同じ類です。
朝日新聞が嫌いな人は、朝日新聞の記事を参考に書いた文章でもいやでしょうし、サンデーモーニングの膳場貴子さんや、モーニングショーの玉川徹が嫌いな人は、膳場貴子さんや玉川徹のコメントを参考にした文章でもいやでしょう。
逆に櫻井よし子が嫌いな人は、櫻井よし子の本を引用した文章も信用しないわけです。ひろゆきでも、ホリエモンでも、古市憲寿、佐藤優でもみんな同じです。
そもそも生成AIにもいろいろなモードもあり、設定もあり、みんな同じではありません。ユーザーに合わせて言うこともコロコロ変わるわけです。客観的ではないのです。肯定モードなら肯定するし、批判モードなら批判するという具合です。
別に生成AIを参考にしなくても、批判されるときは批判される、ボロクソに言われる場合はボロクソに言われるわけで、逆に生成AIを参考にして書けば批判されない、ボロクソに言われることはない、というわけでもないのです。
あるいはまったく何も参考にせず、自分自身の体験や体感、実感を根拠にして文章を書いても、批判されない、ボロクソに言われないとは限りません。何を参考にした、しないというのも必ずしも関係ないのです。文章を書くとはそういうことです。
生成AIを参考にして書いた文章か、そうでないか、というのは非常に低次元な些末な話です。
リルケという詩人はこういっています。
一行の詩のためには
あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
見なければならぬ
あまたの禽獣を知らねばならぬ
空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし
朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ
追憶が僕らの血となり、目となり
表情となり、名まえのわからぬものとなり
もはや僕ら自身と区別することができなくなって
初めてふとした偶然に
一編の詩の最初の言葉は
それら思い出のまん中に
思い出の陰から
ぽっかり生れて来るのだ