おっしゃる通り、
守護大名から戦国大名になる条件として「在京の免除」は大きかったと思います。
諸説ありますが、
守護大名が室町幕府の権威を利用して国を統治するのに対し、
戦国大名は幕府から自立し、実力と家臣団を組織して国を独自に統治していました。
ですので、室町時代も中期までは、
将軍・管領はどの守護任免権にも強制力がありましたから、
守護大名が領国を統治する為にも在京制には意味がありました。
九州探題として地方に居住し、功績を上げた今川了俊は、中央の政変等によって、あっけなく多くの領土(守護職)を失いました。
ところが、1467年に応仁の乱が起こり、室町幕府の統制力が弱まり、
更に将軍家の足利義政が、1475年に、「諸国 御沙汰 毎事力法量」≒「諸国の領有を定めるのは、各々の武力である」と統制を事実上放棄した為、
将軍・管領の任免権は、ほぼ無力化されてしまいました。
となると、自領を守るのは、幕府の権威ではなく、自身の武力となり、
重要となったのは、当然ながら、
在京が有利な「守護職」の獲得ではなく、
「在京免除」が有利な、地元の国人衆との繋がりや支持獲得による徴兵力となったのです。
そうなると、在京しており、地元の国人衆から顔も知られていないような在京義務のあった「守護」等は、圧倒的に不利だったのです。
国人達は、在京して見たこともないような守護ではなく、地元にいる守護代・小守護代・有力国人等の元で纏まったからです。
ですので、おっしゃる通り、在京義務を免除され、地元に居た勢力の方が、圧倒的に有利でした。
ですから、これもおっしゃる通りで、一部を除いて在京義務があった室町二十一屋形のほとんど、
つまり斯波、山名、一色、赤松、京極、富樫、土岐、若狹武田、安芸武田等が没落したのです。
彼らの中で比較的遅くまで生き残ったのは、
領国が京都に近い為に在京の弊害が少なかった畠山、六角、細川、
そして「在京義務」のなかった都鄙境目分国守護の今川、大内です。
また、同じく在京義務のなかった
九州の大友、島津、
在倉制はあったものの、早々に有名無実化した鎌倉公方所管の、武田、佐竹、宇都宮も、
比較的長く存続しました。
一般的には、宇都宮、佐竹、今川、武田、六角、大内、大友、島津らは守護大名出自の戦国大名といわれます。
もちろん、在京義務がなくても、(能力不足か?)戦国大名になれなかった者もいるのですが、
上記は全て、在京義務の弊害が少なかった ≒ 地元と密着できた守護出身の大名です。
「在京義務なし」
・今川、大内、大友、島津
「事実上在京(倉)義務消失」
・宇都宮、佐竹、武田
「領土と京が隣接」
・六角
以上から、質問者様のおっしゃる通り、
守護大名から戦国大名になる条件として「在京の免除」は大きかったと考えます。