哲学とはもともと個人的なものではなく、社会的、あるいは国家的なものです。
中国、中華人民共和国でいえば、ヘーゲルの弁証法とは、マルクスやレーニンの
「共産主義」
の論拠であり、毛沢東、習近平の理論武装の根幹です。それにより土地の私有を禁止したり、財産を没収したりしているわけです。
逆に日本で、個人の権利だとか、人権だとか、言う場合にはその論拠となっているのは、ジャン=ジャック・ルソーの
「社会契約論」
であり、三権分立の原則はフランスの
「モンテスキュー」
に由来し、それらは
「日本国憲法」
で保障されることになっています。しかし中国に行けばそうではないのです。
ヘーゲルにしても、ルソーにしても、モンテスキューにしても、単なる個人の理想や空想ではなく、現実の社会制度の論拠となっているわけです。
ドナルド・トランプの個人的主張も、彼がアメリカの大統領になれば、それは現実の社会制度に影響し、高市早苗の個人的主張も、彼女が日本の総理大臣になれば現実の外交や経済に影響することになるわけです。そうなるともはや楽しいとか楽しくないとかの問題ではないのです。動物園のパンダにも、ホテルの経営にも、マンションの値段にも影響するのです。
ロシア軍が勝つという鈴木宗男の個人的主張も、ウクライナ軍の劣勢がはっきりしてきて、ゼレンスキー大統領の立場が危うくなると、現実味を帯びてきます。
ある時点で、単なる個人的主張であったものがそうではなくなる、社会的な現実になるという場合も多いのです。太陽光発電もそうです。
猟をしないとを熊が増えるという話も、実際に熊があちこちに出没すると、予想の話から現実の話になるわけです。動物愛護団体の主張も、単なる観念論から現実の問題になります。突然他人事ではなくなるのです。