政権が簒奪される事は予想していたでしょう。
秀頼や国松も殺され、女の子も殺されそうになった。女の子は高台院と千姫の取りなしで、天秀尼になったが36歳の若さで「病死」している。
自分の墓(豊国廟)も破壊されて盗掘され、豪華な棺から粗末な大甕に遺体が移された。
更に豊国大明神の神号が剥奪され(明治に復活)、大豊国神社も破壊されそうになったが、高台院の取りなしで、立ち入り・手入れ禁止で朽ちる任せる事になった。
なんて酷過ぎる悪行を受けるとは、予想していなかったでしょう。
しかも『三河物語』によれば金ヶ崎の撤退のは時に信長は、家康に知らせずに敵中に置き去りにして、自分と自軍が逃げる為の囮りの捨て駒にしようとしました。
あまりに可哀想なので信長の命令を破って、家康に撤退を知らせたのは殿りの秀吉でした。
つまり秀吉は家康と家臣と三河兵の命の恩人だったのです。その命の恩人の今際のキワの願いを、熊野誓紙で神にかけて約束を守る事を誓ったのに、平然と破って根絶やしにして墓所破壊や神号剥奪までやらかす。
家康というのは人でなしの鬼畜ですね。
なお秀吉は織田政権を簒奪していません。山崎の戦い・清須会議・賎ヶ岳の戦いの時の秀吉の後継ぎは、信長の4男を養子にした於次秀勝ですから。