自分が通っている場所があるのに、知らないところで別の祈願が重なっていると聞くと、少し落ち着かない感じになりますよね。
大事にしているものが、どこかでずれてしまうような感覚…その引っかかりも自然なものだと思います。
祈願というのは、場所ごとに競い合うものというより、その人の思いや関係性が重なっていく性質のものです。
今回のように、あなた自身が 待乳山聖天 に通っていることと、第三者が別の神社で祈っていることは、ぶつかるというより、少し違う層で動いているように見えます。
ただ、自分の足で通っている場所には、自分なりの積み重ねや静かなつながりがありますよね。そこに対して「他の場所で何かされている」という情報が入ると、その積み重ねが揺らぐように感じてしまうことがあります。
占い師の方の祈願も、コントロールというより「気にかけている」という表現のひとつであることが多いです。
でも、そのやり方や距離感が、自分の感覚と少し違うとき、違和感として残るものです。無理にどちらかを正すというより、「自分はどこに心を置いていたいのか」が、ゆっくり輪郭を持ってくる場面のようにも感じます。
あえて謝りに行くというより、いつも通っている場所で、今感じていることをそのまま置いてくる…そんな関わり方もあるように思います。
その落ち着かなさの奥にあるのは、「願いがどう届くか」よりも、「どこに自分の気持ちを預けたいか」という感覚なのかもしれませんね……。
和みナビ☆