物語や映画、あるいは音楽や絵画に触れているとき、私たちはついついその世界の中に入り込み、時間や空間を忘れてしまいますよね。ページをめくり、スクリーンを見つめ、音を耳で追いかけている間は、その世界がずっと続くような気がして、終わりのことなど考えもしないのに、ふと最後の章やラストシーンにたどり着いた瞬間、なぜか胸の奥がざわつき、言いようのない寂しさに包まれたりします。でもよく考えてみると、その「終わり」は決して完全な消滅ではなく、別の作品や解釈の中でひっそりと息づき、時には違う形で再び顔を出す――まるで、誰かの記憶の片隅で静かに生き続けているかのようです。だからこそ、終わりの寂しさと同時に、どこか温かさや安心感も混ざって感じられるのかもしれません。物語は終わるけれど、どこかで確かに生き続けている――そんな不思議な感覚が、私たちをまた読み返したり、観返したり、考えを巡らせたりさせるのかもしれません。それで、『吾輩は猫である』の終章を読んで、寂しいなぁ、これで終わりか?と思ってたら、『ガリバー旅行記』や『トリストラム・シャンディ』の中に、「おお、猫は生きてるじゃないか!」と発見。『罪と罰』を読んで、これで終わりか!と思ってたら、漱石の『三四郎』や『明暗』の中にこれが入ってる!終わると寂しい…だけど、受け継がれている!まるで、個人は死ぬが、人類は生きて行く!と言ってる感じです(笑)これが嵩じると、『死せる魂』の続編を描いたロシア人もいるし、『吾輩は猫である』の続編やパロディを描いた日本人もいる…結局、読む人を惹きつける魅力があるんですよ。寂しいと思っても、もう一度読めばいいんだし(笑)『鉄路の白薔薇』は3時間以上の長編ですが、観終わった直後、思わずもう一度観ました(笑)グリフィスの『散りゆく花』、シュトロハイムの『グリード』と並ぶ最高傑作です!そこで質問ですが、物語や作品の「終わり」に触れたとき、なぜ私たちはあんなにも寂しさを感じるのでしょうか?でもふと思うと、その終わりは決して完全な消滅ではなく、別の作品や解釈の中でひっそりと息づいていて、ふとした瞬間にまた顔を出す――まるで、誰かの記憶の片隅で静かに生き続けているように。そう考えると、寂しさも少し温かく感じられるのはなぜでしょうか。私たちは終わりを味わいつつも、同時にその先の「生き続ける何か」にも触れているのかもしれません。๑๒/๓๐

1件の回答

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1002064

2026-02-07 17:45

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作品は終わっても、登場人物の人生は続いていく。

そう読者や観客に思わせるのが、作品の“深さ”になると思います。



作家の技量よりも、自らの人生を作品に重ねる“思い”が、感動を生む“原動力”になっているように感じます。

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