「稼げなくないですか?」>
そもそも人生の目的自体が違います。
仏教にしろ、アブラハムの宗教(一神教=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にせよ
「現世利益」はどの宗教も基本的に否定です。
・仏教のばあいは如何にして「悟りを開いて解脱」して「輪廻転生の苦しみから逃れるか」が人生最大のテーマです。
・一神教では「いわば現世は修業期間」「世界の終末」における
「最後の審判」という最終テストをクリアして神の国=天国に入る」のが人生の最大目的です。
たとえば
もともとの釈迦の教えは、悟りを得るため
「出家してサンガに入り、一切の生産活動や生殖活動をは禁止、「乞食(こつじき)」となって托鉢(たくはつ)で最低限の食を得て生きよ」
というものです。
以下引用-----
●●釈迦が説いた労働の否定●
スッタニパータ(ブッダのことば)に、「田を耕すバーラドブァージャ」という章がある。
\u0026gt;ある時ブッダは[托鉢で食を受けるために、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが、食物を配給している傍らに立った。
これに対してバーラドヴァージャは、「 私は耕作した後に食べている。だからあなたも耕作した後に食べなさい」と言う。 現代風に言えば無職の[ニートがタダで食事をもらおうとしているから、「君も働いて食べなさい」と言ったわけで、一般的な日本人の感覚からすれば、これは至極もっともな言い分であろう。
この批判に対して、 ゴータマ・ブッダは驚くべきことに、「私も耕作してから食べているのだ」と応ずる。
「それはどういうことですか」と問い返すバーラドヴァージャに対して、ゴータマ・ブッダは「私にとっては、信仰が種子であり、苦行が雨であり云々」と、詩(偈)をもって解説した。要するに、「自分にとっては宗教的実践が耕作である」と答えたわけだ。
この応答に現代日本人が満足するかは人それぞれであると思うが、とにかくバーラドヴァージャは納得した。
注目すべきはその次だ。
偈を喜んだバーラドヴァージャが乳粥を鉢に盛って差し出すと、ゴータマ・ブッダは「私は詩を唱えた報酬として得たものを食べてはならない」と言って、その乳粥を捨てさせる。
ゴータマ・ブッダの教説は、出家者に労働を厳しく禁じるものだった。
僧侶を示す比丘という言葉は「食を乞う者」という意味をもつが、その名のとおり 乞食(托鉢)で最低限の糧を得ることで生活せよ、というのが出家者に対する釈迦の指示であって、だから律(僧侶のルール)では物の売買や、当時の貨幣であった金銀による取引も、明示的に禁止されている。
そうした一般社会(俗世)における労働・交換・取引の文脈には一切関わるな、というのが比丘たちに与えられた規範なのであり、上記ではそのためにゴータマ・ブッダ自身も「詩を唱えた報酬として」乳粥を受け取ることを拒否した。
このように、 解脱・涅槃を一途に希求する出家者たちに対しては、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産の行為は禁じられる。
これはゴータマ・ブッダの仏教の基本的な立場の一つであるという。
また、釈迦は労働の拒否と併せて、「生殖の拒否」も説いている
---引用元----
https://scrapbox.io/arpla/%E9%87%88%E8%BF%A6%E3%81%8C%E8%AA%AC%E3%81%84%E3%81%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A
ユダヤ教の「超正統派」の生活についてはこちらの動画と記事が参考になるでしょう。
動画
「反イスラエルの超正統派ユダヤ人の実態がとんでもなかった」
https://youtu.be/29ZVLWWXP3o
記事
「ハイテクの国イスラエルで、戒律と伝統に生きる 「超正統派」とはどんな人たちなのか」
https://globe.asahi.com/article/14347550
「男性信徒はイェシーバーに籍を置き、教義を学ぶことに一生を捧げることが求められているため、就労していない者が多く、代わりに女性(妻)が就労して家計を支える。
そのため、幼稚園から男女別学であり、女性は超正統派でも世俗派に近い学習内容を学校で学ぶ。
「男性は宗教を学ぶ。女性はそれを支える。
それが幸せになる道だ」というのが超正統派における基本的な考えである。
支えるメリットとして、男が宗教界で成功した際には、妻や母の超正統派内での地位も上がることとされている。
これに加えて大家族のために貧困層が多く、イスラエル国内の信徒は、政府から生活保護費である補助金(一家族平均で月3,000~4,000シェケル)の支給を受け、税や社会保障負担も減免されている。
このような超正統派への公費支出に不公平感を抱く世俗派ユダヤ教徒もいる。
イディッシュ語話者が多い。
ユダヤ教の教義を学ぶことを最優先と考え、近代的な技術や価値観に否定的で、インターネットやテレビなどを利用せず、代わりに「パシュケビル」と呼ばれる超正統派地区内の街頭に貼られたポスターによって情報を得る。
携帯電話は、ユダヤの律法に即した食べ物「コーシャー」のように、携帯電話にも「コーシャー・フォン」の承認マークが貼られている、宗教指導者から認定を受けた、通話機能のみが付いた機種しか使用できない。」
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%B4%BE_(%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99)
歴史的にみても宗教的に「金儲け」や「蓄財」が肯定されるようになったのは、マックス・ウェーバーによればキリスト教プロテスタントの「予定説」が原因とされています。
ルヴァンの教義で特徴的なのは「予定説」です。
ドルト信条
1.全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
2.無条件的選び(Unconditional election) - 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
3.制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
4.不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
5.聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
つまり
ユダヤ教(の中の律法主義)・・・律法を守ることによって救われると説きます。
中世の堕落したカトリックは「罪人も、教会に寄進をすれば救われる」と説きます。
そしてルターは、「罪人も、悔い改めて神にすがれば救われる」と説きました。
それらに対しカルヴァンは、「罪人は、救われない。救われる人間は、はじめから罪を犯さない」と冷たく言い放つのです。
、
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
によれば、
カルヴァンの予定説では、救済される人間は、あらかじめ決定されています。したがって、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできません。
(ドルト信条2
2.無条件的選び(Unconditional election) - 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説))
つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないわけです。
「善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない。また、人間は、神の意思を知ることができない。」
さらに、自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることもできません。
カルヴァンの「予定説」の恐るべき論理では、信者は常に激しいストレス状態・緊張状態にあります。
そして、人々はそこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出しました。
罪とは、盗みや偽証、殺人ばかりではありません。富におぼれ、欲望に身を任せることも罪です。
食欲や性欲、あらゆる欲望を断ち、日々の勤労に励み、質素に暮らす。この禁欲的な職業倫理を守ることで、カルヴァン派の人々は、「今日一日、罪を犯さずに済んだ」と安心できるのです。
こうして人々は信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献しました。
そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようなりました。
365日禁欲的に働いた結果、何が起こるかというと、財産がたまってしまいます。カトリックでは蓄財自体を罪としましたが、カルヴァンは勤労の結果としての蓄財は容認します。
ただその財産で贅沢をするのは罪ですから、財産は消費ではなく、商品を仕入れたり、新たな店への投資に使ったりするのです。
こうして
禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出しました。
『つまり、「お金儲けは正しい」ということになったのです』
それまで、金儲けは卑しいこととされてました。
そして、プロテスタンティズム、特にカルヴァン主義は、最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教でもありました。
(文字数制限により続きます)