慌てて、系図の添付を忘れてましたので、一旦削除して、再度Upします。
タイムアップまでの時間がないようなので、なるだけ手短に、推敲ナシで書きますね (^^ゞ
さて、
⑴.平安末期ごろから、実は知りませんでしたが、「杭全氏」というのがいたんですね。
・・・\u0026lt;ご存知かと思いますが\u0026gt;調べると、
源義家\u0026lt;1039~1106年\u0026gt;の孫で、源義長が⁽生没年不明⁾ “杭全冠者・義長⁽=杭全の元気のよい若者・義長⁾”として記録されています。
※※※ 中世の“杭全氏”
武士は、拠点とする土地の名を“苗字”としましたよね。・・・上記の義長は、“石川郡”を拠点とした、石川源氏の分流。・・・この義長についても知りませんでしたが、「地名+冠者⁽かじゃ⁾」から\u0026lt;嫡流が“石川”の苗字を名乗るのに対し\u0026gt;、彼の時代に、「杭全の苗字」も名乗り、“杭全を拠点”し出したんかなぁ~と想像したりします。
ただ今回は、
■■古墳時代中期\u0026lt;5世紀\u0026gt;ごろ、
\u0026lt;謎の氏族で天皇家とつながる\u0026gt;息長氏の一派が、“その古代豪族”として、「杭全」を支配してたんかなという推測を、少し・・・。
そこで、古墳時代の「杭全」ですが、
一見繋がりがない、⑵.継体天皇から話を始めます\u0026lt;※ ← 長い“前置き”になります。何でしたらスキップして、⑶.■■■以下を先に読まれても良いかと思います (^^ゞ \u0026gt;。
⑵.継体の陵墓は\u0026lt;宮内庁の見解と異なり\u0026gt;、
6世紀前半の最大規模の古墳\u0026lt;高槻市郡家新町の\u0026gt;今城塚古墳と考えるのが有力です。
この古墳名の「今城⁽いま・き⁾」とは、「今・来=新参者」の意!!
・・・例えば、最も“新しい渡来人”の一団は、
「新漢人⁽いまきの・あやひと⁾」という名で呼ばれ、その中には、応神~継体天皇のころに渡来?した司馬達等⁽しば・たっと⁾がいたりして\u0026lt;その孫が止利仏師\u0026gt;、鞍作氏として鞍作廃寺を今に遺したんでした。
この継体天皇の陵墓が「いま・き」と呼ばれるのは、不思議やないですか。
考えられる理由は、二つ。
㋐大和以外の土地から入ってきた“新参者”という意味からか、または、想像をたくましくして、㋑「倭国へ渡来した新参者」の天皇⁽大王⁾の墓という意味なのか、答えは出ていません。
しかし、継体天皇が地方豪族として育った場所が、理由の㋑につながる様な気がするんです。
・・・当時の倭国の「大陸や半島に開かれた第二の正面玄関」は、北陸!
そして、即位前の名が袁本杼命⁽をほどの・みこと←『古事記』⁾ と呼ばれた継体天皇は、福井県の三国で育った⁽みくに←“日本書紀”⁾とするところに、何か強く、半島との繋がりが感じられるんです。
・・・ちなみに、その地にある“三国湊”は、室町時代でも日本の主要港の一つ\u0026lt;“十湊”\u0026gt;。
更に逆上れば、天平時代には、渤海⁽ぼっかい:高句麗の後身⁾の使者が来航したりした港です。
※※※ 謎の多い天皇ですが継体天皇を改めて整理すると
その根拠地や、系譜等から見れば、
㋐「日本海側の玄関⁽三国湊⁾やそこへの要所⁽近江←『古事記』⁾」を抑えた、㋑“皇族系?”の人物で、
“謎の古代豪族”の㋒「息長氏」と関係が深い、「応神天皇の子孫」とされる、地方豪族出身の天皇。
ただ「子孫」と言っても、「袁本杼命⁽をほどの命」から見て、応神天皇は、五代も逆上った父祖で、彼は「応神天皇・五世の孫」と記されています\u0026lt;今見れば、ほとんど繋がりは薄いと思えませんか?\u0026gt;。
・・・とにかく地理的な部分から、
㋓“新たな渡来人”との関係を深められる場所を占め、もしかすれば、㋔朝鮮半島とも深い関係を結んでいたのではと、自分には想像されます。
そして、㋕「その祖の応神天皇」が息長氏⁽おきなが氏⁾と深い関係を持ち、また彼自身もその関係の中で誕生しているんです。そしてそのコトは、㋖記紀以外の記録からも、うかがわれる天皇なんです。
※※ 応神天皇と“息長氏”
応神天皇の母は\u0026lt;仲哀天皇のキサキ\u0026gt;神功皇后⁽じんぐう⁾で、ⓐ半島遠征からの帰途で天皇を生み、更に東上し、ⓑヤマトに残っていた我が子の異母兄達を倒し、この母は、Ⓒ応神天皇を即位させます。・・・そして、この母の本名は『古事記』ではⓔ「息長帯比売命⁽おきなが・たらし・ひめ」、『日本書紀』でも「気長足姫⁽同左⁾」。\u0026lt;※ ⓕその父は、開化天皇の玄孫・息長宿禰王⁽おきながの・すくね王⁾\u0026gt;。・・・また応神天皇は、ⓖその妃に「息長真若中比売」を娶⁽めと⁾っています。
※※ 継体天皇と息長氏と「杭全」と
継体天皇は、「息長真手王⁽おきなが・まての・おおきみ⁾」の娘である麻績娘子⁽おみのおみこ⁾を妻として迎えています。・・・そして、応神天皇と継体天皇をつなぐ人々の間に、\u0026lt;仲哀天皇の子の、“日本武尊⁽やまとたけるの・みこと⁾”の子として\u0026gt;「息長田別王」がいて、\u0026lt;息長氏との深い関係が分かる\u0026gt;この人の子の名が、\u0026lt;今は散逸しているんですが\u0026gt;『上宮記』の逸文では、「杭全と関係の深い名」で、表れているんです\u0026lt;添付の「系図」なんかも見て下さい\u0026gt;。
■■■⑶.そこで一転、平野に目を移します。
平野の南を流れる平野川の古名は、「百済川」でしたね。
また、“万葉の和歌”から\u0026lt;旧大和川から分流後に平野川に合流する\u0026gt;、今川の古名は、「息長川」と論じられたりしています。
更に飛鳥時代、
\u0026lt;神社の分布から\u0026gt;物部氏配下の、技術・技能系の渡来人が居住していたと、推測できるのが平野でした。
そして↓
「杭全と関係の深い名」とは?
“Kui・mata[杙俣\u0026lt;or 咋俣\u0026gt;]”\u0026lt;← 地名と思われる\u0026gt;”を含んだ人名が、
「継体天皇の父祖の一人」として記録に現れているんです!
その名は、「杙俣長日子王⁽くいまた・ながひこ王⁾」!
※※※“Kui・mata”と “Ku・mata”は違うケド!
\u0026lt;上代日本語の音韻学は素人ですが\u0026gt;日本語には、“単語を構成する音\u0026lt;音韻\u0026gt;”の一部が、落ちてしまう場合があるンですよね。・・・そして“Ku・mata⁽杭全⁾”とは、「イ音」が脱落した場合かと・・・。・・・その「イ音」脱落の例としては、「食べて・いる:tabete・iru 」が“短縮”されて変化して ⇒ 「食べて・る:tabete・ru 」に! ・・・「 音韻脱落 」と呼ぶそうですが、他にも、「Kawa・ra :河原 」は、「川:Kawa 」 +「原:Hara 」で、「Kawa・ha・ra」から、「ha」が脱落して生まれた語 。
そこで、謎の多い継体天皇と、“今来漢人”と“息長氏”の要素を念頭にすれば、
「古墳時代の杭全を支配した豪族」は、
天皇家に后妃を出すだけの力を持ち、
最新の知識や記述を保有する“今来漢人”を支配下に置いていた、
息長系の有力な皇族となるのかと思います。
慌ててたみたいで、
細微に書いた部分が消えてしまい(\u0026gt;_\u0026lt;)、
なんとか復元したんですが、おかしなとこもあると思いますので、
幾らでも返信して下さい。
また、別に質問を上げて頂いても嬉しいですね。