新約聖書のどこにも、イエス自身が自分を直接「神」だと言ったことを伝える記事はありません。ヨハネによる福音書に2か所ほど(10:30、14:9)イエスのセリフとして間接的に父なる神と一体であるかのような表現がありますが、これも解釈によっては親和的心情の吐露だとも言えます。たとえば組織神学者であられた野呂芳男牧師の場合、「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」と述べています(講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回) それを存在論的に解釈して本質的同一だの同等だのと思弁すること自体が「的はずれ」だったのです。そもそも聖書を「誤りなき神のことば」として無批判に読むあり方自体が、現代的価値観においては教典の扱い方として危険であり誤りなのです。そういうカルト的独断的教義は変えて然りです。「少なくとも、イエスを全能の神の『実体』として把握し、そのキリスト論への『信仰』を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)『私を通らずして父のもとに至る者はいない』(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。」(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』岩波書店 p58~59)とあるとおり、イエスのセリフとされている言葉も「後代のキリスト教徒の自己主張の投影である」可能性もあるわけです。それならなおさら、イエスのセリフ以外の記事でイエスを神と等しい存在であるかの如く述べている箇所などは頭から疑ってかからなければなりません。ヨハネによる福音書5:18の πατέρα ἴδιον ἔλεγεν τὸν θεόν ἴσον ἑαυτὸν ποιῶν τῷ θεῷ (神を自分の父と呼んで自分を神と等しくした)における「等しい、同等の」(イソス)〔<「同等」(イソテース)〕については、ある研究者によると、「5,18 と 10,33 に ユダヤ人たちが出てきて、イエスは『神を自分の父だと言い、自分自身を神と等しいと言 っている』と論難しているのは、正にヨハネとその仲間たちが日頃目の前のユダヤ教徒たちから浴びせられている批判そのものなのです。たしかに全体が殺される前のイエスの時代に行われた問答として描かれていますが、実際にはヨハネの現在において日々繰り返されているユダヤ教徒との論争が持ち込まれているのです。その二つのレベルを読み分ける ことが重要」とのことで、「ヨハネは 歴史的に生前のイエスが実際に自分を神とするような発言をしたと客観的に報告しているわけでは」ない、とのことです。しかし「三位一体」の教理を聖書解釈に当てはめたい人は、そのような見解は無視して頑なにイエスのキリスト自覚・神自覚を主張するわけです。それならイエスの十字架上の「わが神」への訴えは何なの?イエスはすくなくとも人としてはユダヤ教徒だったんだから、自分が信仰する父なる神以外に(…ましてや自分自身に)神性を認めるわけがありません。はじめっからキリスト教の「三位一体」は破綻しているのです。
イエスを「神」だと主張する根拠とされる聖句の多くがイエス自身ではなく記者による文言です。その代表的な箇所はヨハネによる福音書の冒頭の「ことばは神であった」であり、しかもそれが創造主であるらしいことが1:3に書かれています。しかし1節ではまず「ことばは神とともにあった」と言われており、その「ともにあった」という表現は「ことば」が創造の業に関わってはいても創造「主」ではないことを意味していたのです。なぜなら3節の「~によって」と新改訳(旧版、最新版)で訳された前置詞は、英語では by よりも through に相当するからです。要するに御子は創造の媒介者・仲介者であり創造主とは区別されるのです(「彼を通して」⦅対訳 川端由喜男訳⦆、同「彼を介して」⦅岩波版 小林稔訳⦆、ヘブル1:2「彼を介して」⦅岩波版 小林稔訳⦆。ヨハネ福音書序文における「ロゴス」について『NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書』⦅松田伊作⦆では、「このロゴスは創造の仲介者ではあっても、それ自身創造者なのではない。」⦅p34⦆とあります。私自身は、「創造の仲介者」も「創造者」ではあるが「創造主」ではないという理解ですが、それはともかく、ここで重要なことは「この讃歌が本当に歌っているのは、初めに二つの神的実体ないし位格が相添うて、しかも一方が他方の上位にあって、存在した、ということなのである。」⦅p34⦆と、同等な面だけではなく従属的な関係も匂わされていることです。このように「キリスト」も「イエス」も「創造の(神的)仲介者」⦅p34~36⦆と言われ、「ヘレニズムの広く流布した媒介者思想」⦅p33⦆との関連が示唆されています)。コロサイ書の記者(パウロの名を用いた人物)が、1:16、18などで示していることは、御子はたしかに被造物より先に存在していたお方ではあるけど(ヨハネ福音書17:5参照)、何にせよあくまで「生まれた」お方であるということ。御子が生まれたお方であるということは、御子を生んだお方が先在しておられたということ。それは造り主なる御父以外にはあり得ません。ちなみにコロサイ1:16では「御子にあって」(協会口語訳、新改訳⦅旧版、最新版⦆)、「御子において」(共同訳、新共同訳、岩波版 保坂高殿訳)の「~にあって、~において」が「ἐν(エン)」で、「御子のために」(共同訳、新共同訳、協会口語訳、新改訳)、「御子に向けて」(岩波版 保坂高殿訳)の「~のために、~に向けて」が「εἰς(エイス)」になっています。万物の創造が「御子のために、御子に向けて」であるなら、創造主が御子ではなく御父のみである方が筋が通ります。御子は創造主である御父にとっては仲介者であると同時に対向者であり、手段であると同時に目的なのです。八木誠一氏曰く、「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)
それにしてもキリストは創造のわざには関わっているのだから単なる人ではなく、神性を有しているとしか解し得ないだろう…という意見もわかります。しかしそれはそもそもキリスト教の教理が聖書の神話を前提として構築されていることに注意が向けられていないのです。聖書には歴史的叙述だけではなく宇宙論的な神話もあり、先在の御子が神性を放棄して僕の姿に成り下がるまで神に従順に生きられたという時空を超えた永遠のケノーシス物語もあります。しかしキリスト教の教理は歴史と神話とが混ざっており、所謂「キリスト神話」もその代表になります。そうなるともはやユダヤ教以来の神の唯一性ということも曖昧になり、実際には父なる神と子なる神という二神関係が物語られてゆくことになるのです。それで一神教へと引き戻す力が働いて教父たちの不毛なる形而上学的思弁が展開したというわけです。
イエスは神であるとするその「神」の意味が、父なる神の「神」とは別の意味を持つということを認めない限り、三位一体のアポリアを論理的に破ることはできません。御子の第二位格は「実体」位格ではなく「非実体」位格であるということです。このような理解こそ「ケノーシス」に相応しいと思います。
そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
歴史的には旧約時代における神の「唯一」性の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29,32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。