仏教と非二元論。極端な例である殺人における道徳のシンプルな答えについて。感想や考えを書いてみてください。ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命、全体性の機能)」は、心の平和のための教えです。達成感というプライド、罪、罪悪感、憎しみ、嫉妬、羨望、責任、敵意、失敗という挫折感、恥、などの自由意志ひいては行為者感覚に起因する心の重荷となる感情の緩和、消滅であり、人生がシンプルになります。私は、このラメッシの教えが好きです。そして、この教えの注意事項として、実際には行為者はいないが、社会には行為者はいる。社会は行為者なしに機能しない。人間は虚構によって生きている、というものがあります。でも、本当は、もっとシンプルなのです。そのことに気づきました。例えば、極端な例として、殺人です。社会には個々の行為者がおり、責任があり、ルールがある。だから、そんなことをしてはいけない。それはそうですよね。でも、本当は、もっとシンプルなのです。それは、例え、殺人に関しても、実際には行為者はおらず、起こることすべては神の意志で、罪は本当は存在しないとしても、「私は、そんなことをするのは、嫌だ。」ということです。ただ、それだけのことでした。本当に、ただ、それだけのことです。殺人をするプログラミング(遺伝子+環境からの条件付け)と運命の肉体精神機構(人間)はするでしょう。しない人はしない。それが、どんな行為者の行為でもなく、運命(自然の法則、神の意志、全体性の機能)としてあるだけです。