キリスト教についてです。私は幼い頃からキリスト教が身近にあったのですが、ずっと本心からは信じられないでいました。その理由をずっと考え続けた結果、神様があまりに自分勝手なのだという結論に至りました。例えば神様がアダムとイブと自らの手で作ったにも関わらず、彼らが罪と犯すと追放し、その後に何も知らずに生まれてきた私たちにも罪があるという、いわゆる原罪が私はどうしても理解できませんでした。もし自分の子供が何か悪いことをしたら、家から追い出すのではなくきちんと叱って教えることが親ではないでしょうか。そして世の中に辛い思いをしている人が全員神に救われているとは思えません。生まれながらに紛争地帯で辛い生活をしている子供たちにも何も神は施してくれません。世界では悪い人たちが上に立ち民衆が苦しめられるという構図がどこにでもあります。私が神ならこんなものはすぐに壊すと思います。病気で苦しんでいる人もたくさんいますよね。それは神のご意向だから、あなたのために神は試練を与えているなんていう人もいますがおかしくないですか?勝手に生み出されて苦しめられて死ぬなんてたまったもんじゃないです。しかし、キリスト教の教えの中には共感できるものもあります。私が完全に理解できていないのもあり、このような不満があるのかもしれません。キリスト教徒の方はここらへんをどのように解釈してますか?

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1188320

2026-07-30 09:15

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私はキリスト教徒ではありませんが、長く宗教に係わっていますので書かせて頂きます。

『聖書』その他の宗教書、例えば『法華経』などに書いてあるのは全て比喩=譬えです(確かイエスも譬えを以て説明すると言っています)。そしてその比喩を通して絶対の世界が書いてあるのです。ですから宗教書に書いてあることは我々が生活している相対の世界には適応できません。このことを認識せずそのまま日常生活に適用すると、相当のストレスと間違いが起こります。右(?)の頰を打たれたら私なら警察に被害届を出します。権利が侵されたなら裁判を起こします。それが自分を守る方法です。それが現在の常識です。それとは全く違う位相から書かれたのが宗教書です。更に言うと各宗教書に書かれてあることは普遍性があるのです。例えば『聖書』の「私はアルファーでありオメガである」と言う言葉は、「阿吽(あうん)の呼吸」の「阿吽」(=仏教の真言の一つ)と同じです。原初と終焉です。文学作品にも普遍性はあります。老子・荘子・ドストエフスキー・リルケ・ハイデッガー・サルトル・吉田兼好・松尾芭蕉・夏目漱石・宮澤賢治・立花隆など名だたる文学者、現在ご存命中の方は若松英輔・田坂広志・諸富祥彦などの各氏は絶対の世界に逢着し、書かずには死ねなかった、死ねない文学者達です。

あなた悩みは絶対の世界の言葉を相対の世界に適用したことです。千葉・成田の三里塚闘争を担った戸村一作さんは敬虔なクリスチャンです。先祖から引き継いだ生活を守るために国家権力と闘いました。

物事をよく見聞きし、分別のある人間になって下さい。



戸村一作:

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