キリスト教徒に質問です。「何故なら神はモーセに言っている。私は誰であれ憐れもうとする者を憐れみ誰であれ慈しもうとする者を慈しむ」と。★絶対予定説である(人間が関与する余地はない、ただ神のみに依存する)⇓では、救いの摂理は、絶対予定説によるものとなるだろうか?・・・・・・・「取って食べるな」、しかし、アダムはこれに反する行動をしたではないか!つまり、どのような結果になるのか、それは、人間の自由な行動に起因するものであり、絶対的に予定されたものでない。もし、取って食べることが、絶対的に予定されたものとするなら、後に神が、アダムとエバに「なぜ取って食べたのか?」と問い質すのは変である。キリスト教徒は、何を絶対視し、何を相対視すべきか、何も分かっていないのである。