私たちは普段、ある行為を目にしたとき、それを「そのまま」見ているつもりでいます。しかし実際には、その行為を直接つかんでいるというよりも、すでに手元にある言葉の枠組みに押し込んで「理解したことにしている」場合がほとんどではないでしょうか。何が起きているのか、何がどの程度行われているのか、それが誰にとって必要なのか――そうした具体的な条件より先に、「これは何と呼べる行為か」という問いが無意識のうちに立ち上がり、その呼び名が決まった瞬間、行為は急に輪郭を持ち、評価や感情や立場までもが一緒に付着してきます。しかも厄介なことに、その呼び名はしばしば、行為を説明するための道具というより、それ以上考えなくて済むための「思考停止のスイッチ」として機能します。名前が与えられた途端、私たちは安心します。それが善か悪か、味方か敵か、許されるか許されないかを、もう自分で考えなくてよくなったからです。こうして、行為そのものは何一つ変わっていないにもかかわらず、言葉だけが先に走り、いつの間にか現実を引きずるようにして倫理や法や感情を連れてきてしまう。私たちは本当に、行為を見て判断しているのでしょうか。それとも、行為に貼られた言葉の響きに反射的に反応しているだけなのでしょうか。以下の話は、そのズレがどこで生じるのかを考えるための、ごく身近で、しかし少し奇妙な例にすぎません。ペット用にはタイのフタホシコオロギが養殖されてます。エンマコオロギと同一サイズですが、脚力が弱く、元気にピョンピョン跳ねません。餌用としては最高です。でも、エンマコオロギやゴキブリと違い、こいつらはいつでも妊娠します。個人で飼って、数万匹にすることは十分可能です。ところが、問題が出て来るんです。もしも10万匹に増え、半分がオスで、その半分がいっせいに鳴いたら、音量が110dBを超えます!(オーケストラのフル演奏時)なので、毎日、オスを捕まえては羽をむしる!この作業が不可欠となります(笑)この作業を時給750円でさせることを「コロハラ」、誰も雇わず自分ですると「キョセハラ」と呼ばれ、刑事罰の対象となります(羽をむしるのは去勢と似てるからです)。こういう「ハラ」の増殖をお茶をすすりながら見てると、ハラハラします!そこで質問ですが、もともとは単に「増えすぎたコオロギの騒音を抑えるための現実的な対処」でしかなかった行為が、ある瞬間から「労働」と呼ばれ、さらに別の瞬間から「〇〇ハラ」という名前を与えられた途端、急に倫理や法や感情の問題を背負わされるようになるのは、いったい何が変わったからなのでしょうか?コオロギの数が変わったわけでも、音量が突然増えたわけでも、むしる羽の枚数が倍になったわけでもありません。変わったのは、私たちがその行為を指さすときに使う「呼び名」だけです。では、その行為が許されるかどうかを決めているのは、現場の現実なのでしょうか。それとも、事後的に貼り付けられた言葉のラベルなのでしょうか?行為そのものは一切動いていないのに、名前だけが独り歩きを始め、いつの間にか善悪や罪責まで連れてきてしまう――私たちはいま、行為を裁いているつもりで、実は言葉の響きに反応しているだけ、ということはないのでしょうか?๑๒/๒๗

1件の回答

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1234474

2026-03-20 20:35

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\u0026quot;Metaphors We Liby by\u0026quot;(Goerge Lakoff, Jark Johnson)という本が

あって、面白いことを書いてます。

(正確な引用ではありませんが)ケンカを比喩で例える。

例えば「あいつの基地を爆撃してやったぜ!」

あるいは「王手をかけてやったんだ!」

どちらも比喩に過ぎず、本当に爆撃もしてなければ、将棋も指してない

んですが、なんとなくそんな気になるんです(笑)

要するに、ある比喩を通すと、それがそれらしく感じられる!

「嘘とは慰めである」と

「嘘は泥棒と同じさ」では世界観が全く違って来ます(笑)



子沢山のフタホシコオロギを飼って、10万匹に増やす?

オスが半数の5万匹として、その半分が同時に鳴いたら、104とか107dBに

なる!これはホントです。

これは近所迷惑なんてもんじゃありません。

だから、必死でオスの羽をむしって、オスの数を100匹ぐらいに抑えないと

大変なことになります。

まず、この大変さを指して「(重)労働」と呼ぶことができそうです(笑)



次に、マルクスは「労働」という言葉でほぼ常に「社会的に有用な労働」

のことを言ってます。

この場合、騒音公害を抑えるという意味以外に、フタホシコオロギを

売って商売をしてるか、自分のペットに食べさせるのですから、

餌代を節約してる(コオロギを買わなくて済む)のです。

つまり「社会的に有用」となるんです(笑)



では、もしもオスの羽をむしらないで、2万匹ぐらいのコオロギが同時に

鳴いたら、どうなるでしょうか?

「近所迷惑」とか「騒音公害」という言葉が出て来ます。

しかし107dBでこう言えるでしょうか?

オーケストラが最大音量付近で何時間も演奏してるんですよ(笑)

確かに「騒音公害」ですが「殺人」に近くないでしょうか?



何をどんな言葉で呼ぶか?はいつも問題になりますが、

言葉が替わった時、そう認識してるのか、その交代劇に対処してるのか?

も問題になります。

例えば、どこの国とは言いませんが、「終戦」と「敗戦」。

「被爆」と「被曝」もかなり微妙。

さらに「いじめの重大事態」と「恐喝」。

いじめっ子がいじめられっ子に「明日は2万円持って来い!」と言うのは

単なる「いじめ」なんでしょうか?

「恐喝」と違うんでしょうか?



「言葉の響きに反応してるだけ」…

確かにそう言えそうです。

しかし、その「言葉」とは何のか?考える必要があります。

ここで言う「言葉」とは網膜上の「イメージ」に近いものです。

浅はかで、単純で、極端なイメージ!

「後ろから熊が追いかけて来た!」なんて、どうです?(笑)

「熊」と言ってますすが、ヒグマやツキノワグマをイメージしませんか?

アライグマや「森のくまさん」をイメージします?(笑)

要は、浅はかで、単純で、極端なイメージ vs 精密で立体的でリアルな

イメージ…

こんな構図になってないでしょうかね?

そして、気づかないうちにこの構図の違いからいろいろなことが生じる…

そうなってないでしょうかね?(笑)

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