これ以外にも、幾度もの重要な海上軍事活動があり、其中でも中国史上初の大規模な渡海作戦は、芝罘に集結して、芝罘湾から出発したことはあまり知られていない。
漢の武帝はたぐいまれな才能と野心のある君主で、彼は東南沿海を統一してから、すぐさま北方の朝鮮に注目した。戦国時代、朝鮮は燕国の管轄であった。秦が燕を滅ぼすと朝鮮は清に属した。前漢の初めに、遼東の古城は至水(現在の清川江)の境界に修復され、燕王の管轄に帰属した。漢の恵帝元年(紀元前194年)、燕の人 衛満が1,000人余りの人を率いて「東走して塞ぐを出、浿水を渡り、秦の故空地 上下鄣に居」して、自ら韓王を名のり、都を王険に建てたが、史上これを衛氏朝鮮という。
前漢時代、衛氏朝鮮は(漢の)国外の臣下となり、遼東太守の管轄を受けた。衛氏王朝は第三代右渠の時に漢朝との関係を断った。また中国から朝鮮を経由して日本へ至る行路も断絶した。元封二年(紀元前109年)、漢の武帝は涉何を使者として王険に派遣して衛右渠へ帰順を勧告した。右渠は拒否し、裨王長を派遣して涉何を帰国させた。一行が須水に到着すると、涉何は従者に朝鮮の裨王長を殺害するように指示した。漢の武帝はこれを聞くと涉何を追求するどころか、遼東東部都医尉に任命したので、これは朝鮮の激怒させた。