何かを見たり聞いたりしたときに、私たちは意外と早い段階で「もう分かった」と思ってしまいます。数が出てくると、なおさらです。多い、少ない、普通、異常――そういう言葉が並ぶと、内容を細かく確認しなくても、頭の中で勝手にイメージが完成してしまう。でも、そのイメージって、本当に同じ条件で作られているのか、よく考えると怪しい。見ている距離も、角度も、背景も違うのに、なぜか同じ土俵に並べたつもりになっている。「数字があるから客観的」「印象が強いから事実」そんな勘違いが、いつの間にか染みついていて、虫眼鏡を取り出す前に、もう結論だけが決まっている。そんな場面、思い当たる節がある気がするんです。さて、心理学の目的の1つに、「普通の人間の特徴を大袈裟にしたものが異常である、この異常を研究することにより、普通の人間の特徴も明らかにすることができる」というのがあります。つまり、虫眼鏡やルーペや顕微鏡で覗く訳です(笑)「2つのものを比較するには、条件を同じにしないといけない」みたいな法則にしていいんじゃないか?と思ってます(笑)数字や、数字もどきは危ないことがあります。「アヒルがたくさんいたよ!」さて、何羽いたんでしょうか?「アヒルだらけだったよ!」こっちの方が多かったんでしょうか?蓋を開けてみたら、湯船でアヒルのおもちゃが5つ浮いてただけなんてことにならないでしょうか?(笑)そこで質問ですが、私たちは「多い」「普通」「異常だ」といった言葉を使うとき、本当に同じ条件・同じ物差しで比べているでしょうか。それとも、数や印象という便利なラベルに安心して、中身を確かめる前に「もう分かったつもり」になってはいないでしょうか。虫眼鏡を向ける前に結論を出してしまう癖こそ、一番見えにくい“思い込み”なのかもしれませんが、どうでしょう。๑๒/๒๘

1件の回答

回答を書く

1151300

2026-04-04 03:55

+ フォロー

おっしゃる通り、私たちはラベルという便利さで世界を見てしまいがち。

​ただ、その一方で『言葉を削ぎ落とすことで、より豊かな情報を伝える』というのも、一つの高度な技術(文系的な発想)なのだと思っています。

​私としては、あなたの言うとおり情報は細かい方が好きです。

「今日は公園を一周しました。一歩目は41.9cm、二歩目は39.85cm…合計1259歩で50658.39cm。看板には一周600mとあるのに、9341.61cm…約15.57%もの差がある。これは…」

​これなら確かに思い込みに依らない客観的な情報になります。

でも、一方で日本には俳句のように、極限まで制限された文字数で情報を表現する文化もあります。これこそが文系スキルの真骨頂。

​もちろん、分かったつもりの怖さに警鐘を鳴らすことは大切ですが、そうなると、私のような面倒くさい人間が世の中に溢れかえってしまうかもしれません。(笑)

うったえる有益だ(0シェアするブックマークする

関連質問

Copyright © 2026 AQ188.com All Rights Reserved.

博識 著作権所有