>知覚、心情を表す語の下に「る・らる」がきたときは自発と訳すと教えられました
それ自体が乱暴な教え方だったのです。
現代語の場合、「れる、られる」の「自発」用法は、知覚、心情語に付く、という法則は、あてはまる場合が「少なくはない」ですが、
古語では、そうとは限りません。
「歌詠まる」など、現代人の感覚では、到底「自発」的な動作と思われないことでも(現代人が和歌を詠もうと思ったら、まあ四、五時間から二、三日はひねらなければなりません。多くの中高生が、教師からのこのような気まぐれな宿題に悩まされ、1週間も頭を抱えた挙句に知恵袋に頼ってきます)、
古代人、特に平安時代の貴族には、「ふと口をついて出てきた言葉が、たまたま五七五七七になっていて、思わず和歌を詠んじゃった」のような現象は、日常茶飯事なのです。
なぜなら、それくらい日常的に、和歌のフレーズが頭(心)の中に蓄積されているから。
だから、今の場合「和歌を詠む」の意味になっている「言ふ」にも、「自発」の「る」が付くことはあり得ます。
>「いはれ」の「いは」の部分は知覚の言葉であるのかどうか
知覚か、そうでないか、でいえば、知覚ではありません。
でも、「和歌を詠む」に限らず、「つい思わず(何か言葉を)言ってしまう」というような状況は、いくらでもあり得ます。
つまり、「る・らる=自発」は、「知覚・心情語に付くとき「だけ」」という原則自体が、意味のないことだし、間違っていたのです。
「言はる」だって、
「誰かに何かを言われた」のなら「受身」だし、
「貴人が何かを言いなさった」のなら「尊敬」だし、
「やっとのことで何かを言うことができた」のなら「可能」です。
明らかに「心情語」である「思ふ」に「る」を付けて、「思はる」mにしたところで、
「誰かにどうにか思われた(愛された)」のなら「受身」だし、
「貴人が何かを思いなさった」のなら「尊敬」だし、
「やっとのことで何かを思うことができた」のなら「可能」です。
「る、らる」の意味解釈は、そんな機械的なことでは決まりません。