死ぬということをどのようなこととして捉えるのかによって、たとえば死んだらどうなりますかという質問に対する答え方も違ってきます。般若心行では、死というものはない、死ぬということが尽きることもないと書かれています。これはおそらく死というものの捉え方が、始めの死と後の死が違っているから、このように一見矛楯してみえる言い方になるのだろうと考えています。私自身は、生きて居るということと死ぬということの間に特別な境界線を引けないのではないかと考えています。死ぬということを何か特別視しているからこそ、これが人類にとって何か大きな問題として認識されているだけなのではありませんか。この死というものの捉え方如何で死ぬということの意味が違ってくるのだとする私の見解について、あなたとしてはどのように思われますか。

1件の回答

回答を書く

1183315

2026-03-30 15:50

+ フォロー

さあ いよいよ 大本題 が来たぞ。

今やぼくらの最終課題は「死」だからね。



ぼくは般若心経を詳しくは知らないが名前くらいは知っている。

で、死に関してだが自分としてはけっこう近いうちかな? て思うておるのよ。



いやいや自転車事故ではなくて寿命死ね。

ある日、なんだか急に死んじゃったんだってねぇー みたいにね。



なのでぼくは般若心経であれなに経であれ構いません。

構いません とは、お願いしません頼りません。ということです。

いつものように母屋の わん が朝に来て、やや首を傾げた後に急いで奥さんを呼びに行ってくれればいいのです。



奥さんと娘2人にはぼくの火葬とその後の樹木葬の手筈は話してあります。

土に帰される際の僧侶は樹木葬の会社が契約している 宗派を問わない寺 という便利なお寺さんが来てくれて、読経とともに土がかけられるのだそうです。

戒名はいただきません。



その読経がどんなものなのか、葬祭社にはサンプルなどありませんでしたから分かりません。

お寺さんの寺院名は聞いたけれど忘れました。

約束通り来てくれればそれでいいです。



気がかりは、ぼくが土に帰った後の各種契約(たとえば自転車保険やネットセキュリティー)の解除と小屋の処分と名車コルナゴ号の処遇(甥っ子が家宝として引き取ることになっている)と母屋の相続など諸手続きがスムーズに進んでくれること。

娘たちが大変かもしれないけれど、規則に従って進めるばかりだよね。



ということで、ぼくは淡々とその日を待つでもなく逃げるでもなく、手ごろなシャレのお題をさがしてうろうろしつつ、湯豆腐での晩酌を楽しみながら過ごしますわ。

うったえる有益だ(0シェアするブックマークする

関連質問

Copyright © 2026 AQ188.com All Rights Reserved.

博識 著作権所有