仏教のスマナサーラ長老は、自由意志はない、意志があるだけと言っています。この意志を脳の機械的反応と言い換えても、間違っていないでしょうか?以下のスマナサーラ長老の文章を読んで、みなさんの感想をお聞かせください。(ここでは、自由意志はあると言っている。)ブッダラボ- Buddha Laboratoryhttp://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/14/050000スマナサーラ正しい答えは、人には自由意思があるんです。生命には自由意思があるんです。それは心があるからなんです。生きているのは心なんです。物体じゃないんです。心が物体を支配管理して生きているんです。だから心には要求があるんです。これは仏教で渇愛とも言います。この心にある要求が、意志になっちゃう。それを自由と呼ぶべきかと言う問題があります。たとえばおなかがすいたら、ご飯を食べるという選択しかないでしょ。わたしの自由意思でご飯を食べているんだと堂々と言えますか? 自分がうどんにするかそばにするか決めますけど、食べないで寝るか、にはならない。無理矢理寝られますけど、あの要求は満たしていない。自由意思で行動判断できるんですが、それを自由と呼ぶべきか、という問題があります。仏教では、人間性、と言う言葉を使っています。自分がご飯を食べることをやめて寝ることにするのは可能です。しかし結果は変わらないんです。ご飯食べることをやめるということで、寝るという結果が出てくる。業があるんです、いつでも。しかし、たとえば、人が何か言う。言うと、わたしには理解できるというところで自由が働いています。人が言うことに怒ることもできるし、笑うこともできる、という自由があります。そういうところで自分の意思が働いてくれる。そこはうまく、すごく大きなシステムでお釈迦様に説かれています。怒るなよ、欲張るなよ、と。(ここでは、自由意志はないと言っている。)仏教と科学が発見した「幸せの法則」アルボムッレ・スマナサーラ (著), 前野隆司 (著)P56~スマナサーラ前野先生の「自由意志はない」という説明は、そのとおりです。「自分が勝手に生きているんだ」と偉そうに言っても、そんなものは成り立ちません。生命は、一定のプログラムの範囲内で動くしかないのです。ロボットが「このデータが入ったら、こうする」と判断するのは、そのように前もってプログラムされているからです。しかし、私たち生命にもあらかじめプログラムが入っているのです。だからこそ、判断できるのです。手を上げるにしても、突然、わけもわからずに手を上げるわけではありません。プログラムが色々なデータを総合的に判断して、「じゃあ、上げるしかないですね」と判断した結果、「手を上げる」という行為が成り立つのです。P194~スマナサーラ先生が最初に自由意志のお話をされました。生命に意志はありますが、ヨーロッパ人がいう「自由」意志はありません。自由意志ではなく、will、意志だけです。条件によって成り立つだけです。Willは次の行為に活かせますが、そこに自由はありません。たとえば口を開けたなら、次の行為は閉じることと決まっています。たとえば腕が痒くなると掻きたくなりますね。条件によって意志が生まれたのです。それは「自由」意志ではないでしょう。結局は、みんなロボットなのです。組み立てられた体にOSがインストールされて、それによって動いているだけなのです。息を吸ったら、次は吐きたいという気持ちがなければ吐けません。吸ったら吐く、という意志が生まれるのです。それも条件によって成り立っている意志の流れです。ブッダが説かれたようにマインドフルネスの訓練をすると、その流れが見えてきます。(引用、終わり)上記の質問は、昔、私がした質問「仏教のスマナサーラ長老が、本当は自由意志について、どう思っているか」の内容を、少し変えて、書いたものです。以下は、当時のベストアンサー。細かいことを言い出すと大変なことになると思いますが、全ては無我で因縁により物事は動くので、勝義諦としては自由意志はないというのが上座部的には筋でしょう。ただ、お釈迦さまは世俗諦としての自由意志は認めておられます。なぜなら、解脱には精進が欠かせないからです。精進には自己の意思が必要なので、世俗諦的には自由意志を認め、勝義諦的には自由意志を認めないというのが上座部のいわんとすることろじゃないかと思います。スマナサーラ長老の言はこの違いによって、言い分けられていると思います。