『新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録14章6節と7節に、
次のように書かれています。
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6節
また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、
地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族
に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
7節
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの
時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」
***
6節1行目から、「・・・彼は、地上に住む人々、すなわち、
あらゆる国民、部族、国語、民族に『宣べ伝えるために、永遠
の福音を携えていた』。」とあります。
また7節に、『彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。
『神のさばきの時が来た』からである。・・・」』とあります。
『神のさばきの時が来た』から、「神を恐れ、神をあがめよ。」
という文脈になります。
6節の記述から、誰が宣べ伝えるかは別として、「永遠の福音」
は「宣べ伝え」られる、と言うことができます。
それは、7節の記述から、『神のさばきの時が来』る直前では
ないかと思われます。
「神を恐れ、神をあがめよ」というのは、『神のさばき』が恐
ろしいものである、ということを示唆しているように思います。
そしてそれは、恐ろしいものであると同時に、すばらしいもの
であることも感じさせます。
つまり、『神のさばきの時が来』るので、「永遠の福音」を受
け入れなさい、ということを意味しているのではないかと思い
ます。
「永遠の福音」が「宣べ伝え」られるのは、『神のさばきの時
が来』る直前のことではないかと思われます。
ダニエル書11章32節から35節までに、次のように書かれ
ています。
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32節
彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神
を知る人たちは、堅く立って事を行う。
33節
民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長
い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われ
て倒れる。
34節
彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧
言を使って思慮深い人につく。
35節
思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、
清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来な
いからである。
***
35節1行目に、「思慮深い人のうちのある者は、『終わりの
時までに』彼らを練り、」とあることから、35節に書かれて
いることは、『終わりの時』の直前のことであることが分かり
ます。
「思慮深い人のうちのある者」(35節)や「民の中の思慮深
い人たち」(33節)や、「自分の神を知る人たち」(32節)
というのは、『終わりの時』の直前の人たちである、と言うこ
とができると思います。
そして、「堅く立って事を行う」(32節)や「多くの人を悟
らせる」(33節)、また「彼らを練り、清め、白くする」
(35節)というのは、「永遠の福音」が「宣べ伝え」られる
ときのことではないかと思われます。
そして、「永遠の福音」を「宣べ伝える」のは、「思慮深い人
のうちのある者」(35節)や「民の中の思慮深い人たち」
(33節)や、「自分の神を知る人たち」(32節)ではない
か、と思います。
言い換えると、「聖徒たち」です。
ダニエル書11章33節に書かれていることは、ヨハネの黙示
録13章10節の、「とりこになるべき者は、とりこにされて
行(い)く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならな
い。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」という記述を思わせま
す。
ダニエル書11章の「人たち」、つまり「聖徒たち」と思われ
る「人たち」が「堅く立って事を行」(ダニエル11:32)
い、「多くの人を悟らせ」(同11:33)、また「彼らを練
り、清め、白くする」(同11:35)のですが、そのように
することが「永遠の福音」を「宣べ伝える」ことであり、また、
それに伴うことではないかと思います。
「終わりの日」というのは、マタイの福音書24章3節の「世
の終わり」の日のことで、それは、「あなたの来られる時」か
そのあたりのことと考えられます。
「永遠の福音」が「宣べ伝え」られるのが、『神のさばきの時
が来』る直前のことであるとすると、「宣べ伝え」られるのは、
「あなたの来られる時」の直前のことであると思われます。