人間というものがそもそも、「何があっても守りぬきたい大切な存在」や、「どうしても譲れない考えや信仰」というもの を持つものだからです。
それらを危うくする存在、例えば攻撃的な、または略奪目的の他部族などが現れた時、自分たちのかけがえのないものを守るためには、争う以外の選択肢がなかった。それが大昔のスタンダードでした。
現在、日本を含む大半の文明国に住む我々のような人間は、「絶対に守りぬきたい大切な存在」も「どうしても譲れない主義主張」も、誰かと武器で争って守らなければ、と思うことがありません。そういう脅威を感じずに生活できている人が大半なのですが、実は歴史的に見ると、今のその状態のほうが特殊なのです。
現代の文明にあずかる人類は、教育を通して、他人の大切なものは尊重しなければならないことを教わり、知っています。幸いなことに、そのことを知らない人、全く意識していない人はほとんどいません。
だから今の時代の人類は、「争いは何も生み出さない」とか「どんな意見の違いも、争わずに話し合いで解決しなければならない」と思い込むようにさえなりました。
実際、争いのない世界は理想です。でもその世界を実現するには、「他人の大切なものは尊重すべきだ」という意識を住人全体が共有していることが大前提です。そんな意識を持たないグループばかりだった大昔だと、守るにはそれらを脅かす集団と争うことが必要不可欠な手段である、という意識が支配的だった一方で、今はそう考える人がほとんどいなくなりました。これはとても大きな前進だと思います。
ただ、争うという能力、また争いたいという欲求が生じる傾向は、先祖から受け継いでいて、今の平和でいられることの多い世の中でも、ふとしたはずみに我々の脳裏に発動してしまうこともあります。例えば自分の自尊心というような、命をかけて守る必要のないようなものであっても、それが誰かから軽視されたり否認されたりした時に、「大切なものを守るには争わなければならない」という遺伝子に刻まれたプログラムが作動してしまう、ということが、どうしてもタイミング次第で、また人によっては起こってしまう、という状況です。
ですがこれは、人類の歴史上、争いが自分たちの命や財産を守るために必要だったほどなので、争いの遺伝子の働きというものは簡単にはなくならないと思います。
※ ただ、縄文時代までの日本では、人と刹傷能力のある武器を使って争ったことは極めて少ないのです。そのような痕跡がほぼ見つかっていないことから、そう考えられています。「大昔は守るもののために争う以外の選択肢はなかった」と上では言っていますが、常にそうだったわけではなく、縄文時代のころの我が国のような例外もあります。