洋の東西を問わず、人の自我は何らかの超越的なものに支えられて初めて安定します。
イスラム教徒は言うまでもなく「神」の存在によって支えられています。
神と比べれば、人は全員等しく卑小な存在であり、彼らは本質的に人を信用していませんし、他人からどう思われようがぜんぜん気になりません。
他人と何らかの約束ごとをする場合、互いに必ず神に誓うことで初めて信用関係を築けるのであり、神という回路を介さない限り他人との如何なる信頼関係も築けないのです。
彼らは他者からの目を気にしませんので、人に対してはとことん強気になれます。その代わり、彼らは日本人には想像出来ないほど神の目を恐れています。
対して、日本人の自我を支えている超越的な存在は「世間の目」なのです。
この場合の世間とは「自身が所属する共同体構成員の目」と言うほうが正確です。
日本人にとっての世間は、イスラム教徒にとっての神と同じですから、イスラム教徒が常に神の目を恐れながら生きているのと同じように、日本人は世間の目を恐れ、気にしながら生きています。
逆に、イスラム教徒にとって他者からどう思われているかなんてとるに足らないどうでもよい事なのと同じように、日本人にとっては神やそれに類する超越的な存在に見られていることなんか気にもしていません。
日本人は宗教を物凄く軽んじており、神からどう思われているか、という視点がスッポリ抜けています。
なので、イスラム教徒から見れば神を恐れない精神がどうかしているように見えているかもしれません。
世間の評価に自我を支えられている日本人にとって、「世間に迷惑を掛けた」とか「世間に顔向け出来ないほどの恥をかいた」という理由で自殺する人も普通にいます。
日本人にとっての「世間」はイスラム教徒にとっての「神」に等しいほどの効力がありますので「世間に迷惑を掛けないこと」は日本人の倫理感ではほぼ自明と思えるほど重大です。
だからこそ、神を恐れても人を恐れず他者に対してとことん強気な欧米人やイスラム教徒らの振る舞いは、日本人から見ると「恥知らず」に見えるのです。
しかし、それは日本人特有のローカルな思考パターンであることを自覚する必要は有ると思います。世界では日本人的な価値観のほうが少数派ですから。