「宗教的な人格になる」というのは、具体的に言えば、宗教によって人格を向上させ、生命を豊かなものにする、ということでしょうか。ならば確かに、宗教は人格を向上させます。そうして親孝行もできます。ただし、それは正しい宗教を信仰した場合に限られます。
「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(盂蘭盆御書、日蓮大聖人御書)
(自分が仏にならなければ、父母さえも救い難い。ましてや他人はなおさらである)
「自分が仏になる」、つまり、自分が宗教の信仰で人格を向上させるなど生命を変革させてこそ、父母も他人も救えるのである、ということです。
宗教には正邪があります。正しい宗教ならば、人格を向上させます。しかし、邪な宗教ならば、人格を歪ませます。親孝行をするどころではありません。
この世には様々な宗教が存在し、どれもが「我々の宗教には功徳がある」と宣伝しています。その中で、多額のお金を献金し、神や教祖におすがりすれば救われると説く新興宗教がありますが、このようなものは間違いなくインチキ宗教です。単なる気休めにとどまらず、カール・マルクスが言うような「阿片」の宗教であり、有害ですらあります。最近解散命令が出された宗教団体の有様を見ても、それはよくわかることです。
正しい宗教とは、神や教祖などを盲信するものではなく、自分自身に内在する無限の可能性を引き出すものです。また、神・教祖といった「外部のもの」に頼るのではなく、誰の内面にも秘められている、限りない知恵と生命力を開発していくものです。そこには、自分自身で自分の行動を決定付けるという自律性があります。他の者に盲従して、自分を見失うことなど決してありません。
そしてその引き出した知恵や生命力があれば、目前の課題や困難があっても、それらに立ち向かい、乗り越えていくことができるのです。あたかも山登りで、体力、脚力が弱ければ、登ること自体大変で、辛く感じられますが、体力も脚力も強ければ、周りの景色を悠々と楽しみながら登っていくことができるようなものです。
その正しい宗教とは、我々の生命と宇宙とを貫く根本法則を信仰するものです。それを「妙法」といいます。さらに具体的に言えば「南無妙法蓮華経」のことです。日蓮大聖人御書写の正しい本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えることが、その知恵や生命力を引き出す具体的な実践です。これによって、生命を変革して人格を向上させ、生活上の行き詰まりが打開され、不可能が可能となり、自在の境涯になれるのです。これを「宿命転換」とも「人間革命」とも言います。そして、その境涯は、死によっても消えることはなく、来世以降も続くのです。
また、正しい宗教には、「文証」「理証」「現証」の三証があります。文証とは、ある教義・主張が経文等の文献上で裏付けられているか否かということ。理証とは、その教義が道理に適い、また理性のうえから普遍妥当性があるか否かということ。また現証とは、宗教を実践した場合、現実の上での結果(功徳)が現れるか否かということです。三証の中でも「現証」が最も重要です。「現証」こそが、その宗教の正邪を如実に証明するものだからです。この三つ、特に現証が、「南無妙法蓮華経」の信心の実践の中に具わっているのです。
ただし、南無妙法蓮華経と唱えるだけであるなら、既成仏教をはじめ、数ある教団も実践していますが、これらには何の功徳もありません。なぜなら、南無妙法蓮華経を覚知され、人類に教えられた日蓮大聖人の御指導に我見(自分勝手な考え)を交え、大なり小なり大聖人に違背しているからです。大聖人の教えを正しく実践している世界唯一の教団は、創価学会です。真の正しい宗教は創価学会の中にしか存在しないのです。
このような宗教を信仰・実践するのならば、「宗教的な人格」となり、本当の親孝行ができるのです。