大正後期〜昭和初期の徴兵制度についてお詳しい方にお聞きしたいです。この時代を舞台にした創作をしているのですが、当時の制度や価値観が、分からずどのように話を進めるべきか行き詰まっております。登場人物を仮にAとします。Aは1902年8月生まれ、東京市の現在の新宿区あたりに実家があります。芸事の名家の長男でいわゆるエリート層というものに該当します。一高から東京帝国大学(理系)の進路を進む予定です。この男性が徴兵検査を受けることになるのは1922年になるかと思われますが、彼は甲種判定を受けるかもしれないと見込まれていました。(正確には身長が159cm程度のため、基準とされていた160cmに足らず乙種一種の可能性もありますが、それ以外の身体及び精神的な基準は満たしている想定です)なので、合格すれば大学卒業の1926年の12月1日に入隊する、という流れになると思われます。しかし、この時代軍縮によって、実際に徴兵されたのは甲種の中でも籤引きによって選ばれたものに限られていたと聞いています。しかもその割合は半数を切っていたと。この場合、軍への入隊を内心嫌がっているAという立場であれば、籤引きのはずれを狙うか、一年志願兵制度を利用し確実に入隊が決まるものの拘束期間を短くするか、どちらが選ばれる傾向にあったのでしょうか。大正デモクラシーの文化的背景から社会的に軍隊を敬遠する傾向もあったかもしれないと思うと、一年志願兵制度を利用することはまずまず無かったのでしょうか。話は変わってしまうのですが、本当はこのAという人物は関東大震災によって負傷し軍役を強く望んでいたが適さなくなってしまった友人を憂い、自己犠牲の精神で入隊を希望するような流れにしたいのです。一年志願兵制度は徴兵検査時に志願するものと伺っているので、後になって(震災後)やはり一年志願兵として入隊したいと希望することは出来なかったと解釈しています。なので現在の設定としては、両親や親戚から一年志願兵制度を利用し士官の資格を得ることで社会的地位を得ることを期待され、本人の希望ではなく制度を利用した。しかし、負傷した友人を目の当たりにして、自分が一年志願兵として通過してしまった不運に思っていたことを幸運だと思い直し、友人の無念を晴らそうとする、という心的変化に変えようと思っています。しかし、芸事の名家が軍歴に拘るだろうか?という個人の偏見も混ざった疑問も残りますし、何より目に見える行動で描画できるのであればそれに越したことはないと思っているので、震災後に一年志願兵制度を利用し徴兵に自ら志願するという姿が理想です。ですので、『検査後に入隊を希望する他の手続きがあったのか』、あるいは『一年志願兵制度にも例外があったのか』、邪道ですが『こんなコネがあれば入隊できたかもしれない』、という知識がございましたら、是非お聞かせ頂けましたら幸いです。

1件の回答

回答を書く

1211776

2026-04-06 03:25

+ フォロー

1年志願兵制は、中等学校(明治期は指定の官立学校)で教練を受けて卒業していれば、徴兵を待たずに志願できました。

また18歳から志願できます。



ただ、衣食住は自弁だったので100円(時代により最終的に150円)という高額な金額(大正12年の年収換算で100円は現在の120万円程度。平均月給の手取り3ヶ月程度)を一括納付できる家庭に限られます。



この1年志願兵制度には落とし穴があって、入営して中間試験が数回ありそのたびに昇進するのですが、半年ほどして伍長に任官したところでその後の試験を落第するとそのまま予備伍長で除隊できました。入営から半年で、しかも下士官で除隊できたので入隊者の多くがこうした制度を悪用していました。それで昭和に幹部候補生制度に変更されたのです。



ただ、真面目な人や大学迄進む人は最終試験に合格し、翌年の勤務演習にも参加して少尉で除隊する人が多かったそうです。士官になると装備手当をもらっても制服や装備一式揃えるのに200円以上の自弁となり、大出費になったそうです。そういう出費のできない人は勤務演習に参加せず予備曹長で終わったようです。



1年志願兵は志願兵だけの教育班ですから古参兵はおらず、悪名高い内務班のリンチに無縁でした。そういうこともあり結構志願者は多かったそうです。



ユダヤ人のビザを発給した杉原外交官も1年志願兵で少尉の身分を持っていました。

うったえる有益だ(0シェアするブックマークする

関連質問

Copyright © 2026 AQ188.com All Rights Reserved.

博識 著作権所有