我が家の家紋について質問です。※先ず私は本家筋ではなく、明治初年に長女と血の繋がった従兄が別家をたてた家系です。本家は地主や酒造業など昔ながらの事業を、別家は炭鉱事業や政治家、地方発展の為に鉄道を敷いたり銀行を創設したりしていました。よって別家筋の祖父が本家別家を差配しておりましたが、熊本工場が火事に、本社も何故か泥棒が入り保険も降りず再起半ばで亡くなったと聞いています。わたくしどもの先祖は菩提寺によると鎌倉時代から続いており、戦国初期から地侍又は土豪や少領主としてその名が記されております。名護屋への道すがら、太閤道を案内し賞賛されたと家譜に盛った記載があります。また筑前一国の支配を許された小早川隆景が先祖に提示した禄高では一族郎党を養えず、やむなく帰農を願い出、隆景から大農長に任命されたと、家譜(笑)には書いてあります。江戸に入ると大庄屋を歴任したり福岡藩から扶持を貰い炭鉱事業をしていたようです。これは家譜以外の戦国時代は宗像追遺録、宗像記追考、江戸期は貝原益軒の筑前国続風土記、明治以降の郡志、町史などに戦国期より前から地侍、土豪、領主、大庄屋や藩から任命された炭鉱事業主として、明治以降は地方名望家、政治家、実業家として名前がありますので、盛っていても概ねの筋は本当だと思われます。天保に生まれた先祖は白石正一郎と昵懇で先祖の妹と正一郎の息子が結婚しています。※文久2年に嫁ぎ先で死去していますが高杉や久坂らと顔を合わせていたかも知れません。その縁なのか萩藩にいた五卿の太宰府落ちの際は、我が家が太宰府までの道のりを差配したと記載があります。明治に入ると本家は地主業、酒造業、先祖は炭鉱事業が軌道に乗り、銀行や鉄道などの創設、もしかしたら明治専門学校設立に関与していたかも知れません(九大所蔵の手紙目録にそのような題名がありました)。そして戦争前夜明治27年頃に貝島太助へ主力炭鉱を売却してしまいます。なんと勿体無い。このようなある程度真実が含まれており、江戸期の法制度が分かる古文書が調べられたり、戦前から帝国大学の学者が研究に訪れ、麻生や貝島と没落した我が家が比較された論文などが発表されております。平成にも文書目録が完成したり、地方政治家・名望家としての側面からの論文も発表されております。おそらく還暦過ぎの私が見聞きした話には真実と脚色された事柄があると思われます。そこで皆様にお伺いしたいことがございます。我が家の家紋は江戸時代に創作されたものでしょうか?戦前生まれの父によると『うちわ軍配』という家紋と言っていますがそのような家紋は我が家の家紋でしか見たことがありません。また清和源氏或いは河内源氏の家紋とは似ても似つきません。和服の女紋は写真に撮っていないので、江戸中期に建てられた第二墓地が広かったので祖父が昭和40年代に亡くなった者の骨を入れるための墓を作りました。現在使っている墓の古びた家紋の写真をアップロードいたします。アップロードした家紋の正式名称と江戸以前に存在していたかを知りたいのです。家譜には宗像大宮司より遠江斯波の末裔ゆえ、「遠江殿」と呼ばれていたと盛って書いてあります。※ 宗像記追考どうか長年の疑問が解消されることを祈っております。