カテマスさまのご回答にありますように、「退位(譲位)」してからの「出家」という順序になりますが、このうち「退位」につきましては粟田殿(藤原道兼)と徒党を組んでおそらくはかなり略式の儀式を余人に知られぬよう密やかにおこなったという描写になっています。
時の関白(藤原頼忠)らにも知らせずに挙行した儀式ですので、他人に知られれば「出家」という”動かしようのない事実”が成就されるまではそのような儀式をなかったことにされかねません。
1年ほど前に出家しようとした際、そのことが露見したために関白をはじめ周りの人々から引き止められてしまっていますので(当時道兼は蔵人ではあったものの花山帝に近しい状況までには至っていなかったようです)、今回こそは人目に付くような行動を取るわけにいかないと考えたのでしょう。
道兼からすれば出家までの御膳立ては(父親の藤原兼家:東三条殿らと図って)既に万全を期されていたようですので、あとはなるべく迅速に行動するだけだったのでしょう。
実際の行動に移ってしまえば“物理的にも?”もう誰にも止められないだけの自信があったのだと思います。