反対です。
能力について、それは学習や訓練で磨くことができたり、あるいは苦手が故に達成できずとも仕方がないことという前提に立つならば、人間的なこともまた学習や訓練で磨くことができたり、かつ苦手が故に達成できない人もいる。と思います。
前者を「甘えではない、仕方がない」とするならば、「人間的な部分」ができない人もまた「甘えではない、仕方がない」と言えるでしょう。
「人間的な部分」が曖昧なので、ここではマナーを尊ぶことや悪事をしない。といった道徳的に好ましい振る舞いと仮定すると、やはりそれも努力の賜物だと思います。
洞窟に一人で生まれ育った人がある日突然日本社会に出てきた場合、彼の「人間的な部分」が優れているか劣っているかを想像すると、やはり劣っているとしか想像できません。彼にはTPOを弁える事や、詐欺をしてはならないといった道徳的振る舞いは理解できないでしょう。
マナーや、善行といった道徳的振る舞いは、生得的なものではなく、後天的学習の賜物でしょう。でなければ、それを賞賛する理由がありません。
とすると、「人間的な部分」が劣っている人々は後天的学習の不足、努力不足が故ということが言えます。だからこそ私たちはその「人間的な部分」が劣ることを、努力不足と感じることができます。
ですがこれは、家事ができる事や、野球ができると言った能力的な部分と違いがありません。
「人間的な部分」が努力により向上できる能力であるとすれば、それを長時間努力や指導をしても改善しない、「仕方の無い」事とできる人間も想定できます。
ですがそれは、直ちに人間的な部分が不出来な人間を仕方がないと諦める理由にはなりません。
勉強ができない人間が、直ちに能力的不可能が理由であるとはされないように、人間的劣後が直ちに能力的不可能とは言えないからです。
洞窟から出てきた彼に教育を施すチャンスはあるはずですから。