どんなに努力しても、仕事が出来ない、スポーツが出来ない、勉強が出来ない、家事が出来ない、歌が音痴etc...,などの“能力的”な部分って、長期間取り組んでも苦手な人はどうしても苦手だから、仕方がないと思うのですよね。でも、“人間的な部分”で明らかに悪どい、人に迷惑をかけるのは本当に腹が立ちます。人間的な部分って、私も発達障害・知的障害・精神疾患界隈の友だちがたくさんいますが、その生きづらさから多くの人が健常者顔負けに人間的に出来ている人が多かった記憶にあります。障害をお持ちの方ですら、人間的な部分を改める事が出来るとこれで実証されたので、明らかに悪事を繰り返す、それを直してくれない人に怒りが湧きます。上記に挙げた“能力的な部分”って、やはりどんなに努力しても個々の限界値もあるので、仕方がないと思います。何をそんなに自分を誇っているのか分かりませんが、いい大人なのに、人間的な部分で多くの人を傷つける人はそれこそ「甘え」ということばで当て嵌めてもいいですよね?

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1090143

2026-05-19 21:35

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反対です。



能力について、それは学習や訓練で磨くことができたり、あるいは苦手が故に達成できずとも仕方がないことという前提に立つならば、人間的なこともまた学習や訓練で磨くことができたり、かつ苦手が故に達成できない人もいる。と思います。

前者を「甘えではない、仕方がない」とするならば、「人間的な部分」ができない人もまた「甘えではない、仕方がない」と言えるでしょう。



「人間的な部分」が曖昧なので、ここではマナーを尊ぶことや悪事をしない。といった道徳的に好ましい振る舞いと仮定すると、やはりそれも努力の賜物だと思います。



洞窟に一人で生まれ育った人がある日突然日本社会に出てきた場合、彼の「人間的な部分」が優れているか劣っているかを想像すると、やはり劣っているとしか想像できません。彼にはTPOを弁える事や、詐欺をしてはならないといった道徳的振る舞いは理解できないでしょう。



マナーや、善行といった道徳的振る舞いは、生得的なものではなく、後天的学習の賜物でしょう。でなければ、それを賞賛する理由がありません。



とすると、「人間的な部分」が劣っている人々は後天的学習の不足、努力不足が故ということが言えます。だからこそ私たちはその「人間的な部分」が劣ることを、努力不足と感じることができます。

ですがこれは、家事ができる事や、野球ができると言った能力的な部分と違いがありません。



「人間的な部分」が努力により向上できる能力であるとすれば、それを長時間努力や指導をしても改善しない、「仕方の無い」事とできる人間も想定できます。



ですがそれは、直ちに人間的な部分が不出来な人間を仕方がないと諦める理由にはなりません。

勉強ができない人間が、直ちに能力的不可能が理由であるとはされないように、人間的劣後が直ちに能力的不可能とは言えないからです。



洞窟から出てきた彼に教育を施すチャンスはあるはずですから。

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