ご存知の通り、真田昌幸が上田合戦で戦った時の上田城は、関ヶ原合戦での罰により、堀は埋められ塀や矢倉は壊されてしまいました。
ですので、建物としての真田上田城は全く見ることができません。
しかし、上田に転封となった仙石氏が幕府の許可を得て、1626年により上田城を再び築城します。
今、見られる石垣の大半はこの仙石上田城のものです。
その時の築城の際、仙石氏は城の基本設計である縄張りについて、真田氏の時代の物を再利用します。
具体的に言えば、堀を新たに作るのではなく、元々あった真田上田城時代の埋め立てられていた堀を再び掘り下げました。
同じ時代の類似例として大坂城の場合は、豊臣秀吉の大坂城があります。
豊臣大坂城は、一度壊され埋められましたが、徳川氏は豊臣大坂城の堀を拡充し、本丸を拡大するため一部位置を変更しています。
改めて上田城南側の石垣を見ると、何度かの修復により時代が違う積み方が見られますが、本丸南側には真田氏によるものか?とされる石垣があります。
本来なら石垣の四隅にある「算木積み」が石垣の中央に見られるところです。
これは、破却を免れた真田時代の石垣を取り込んで、仙石氏が石垣を拡充した積んだのでは?と言われています。
また、本丸の入り口に見られる「真田石」は、真田信幸が父・昌幸の形見として持ち出そうしましたが、大き過ぎて無理だった。なんて逸話もあります。
この逸話が本当なら、この周囲の石垣は、真田時代のものとなります。
この事から、現在の上田城に真田と徳川による上田合戦の頃の痕跡を探すなら、掘り直された堀や、各曲輪の配置などの基本設計が真田上田城の痕跡となります。
また、史料的な根拠は希薄ですが、真田石周辺の石垣と本丸南側の石垣は、真田時代の石垣の可能性があります。