高校2年生です。人間は本質的に利己的で、状況や環境、経験次第で簡単に善にも悪にもなり得る存在だと思っています。今は善人に見える人でも、追い込まれれば簡単に裏切ったり、他人を切り捨てたりする可能性がある。むしろ「自分は絶対にそんなことをしない」と思っている人ほど、状況次第で一線を越えるのではないでしょうか。実際、人は自分を守るために・行為を正当化し・傷つけた後に合理化し・自分の醜さから目を逸らすことをよくします。また、人間の持つこうした醜さそのものが、誰かの人生を深く歪めてしまうこともあります。例えば、ある連続殺人を犯して死刑になった人の話ですが、彼は虐待やいじめを受け続けた末に重大犯罪に至ってしまいました。彼の周りの人間や、最後は彼自身がそうなってしまったように、「誰でも悪になる可能性がある」という考えは現実的だと思っています。それにも関わらず、人は自分の醜さは隠し、他人の醜さだけを拒絶したり切り捨てがちです。他人の弱さや歪みは、自分の中にある同じものを直視させるからだと思います。こうした世界で、「善人であり続けること」や「保証のない信頼を守り続けること」には、どれほどの価値があるのでしょうか。僕は、自分が最優先であり、他者は二の次、三の次で良いと考えています。自分の身や利益が脅かされそうなら、関係を切る・距離を置く・裏切る・出し抜く判断も合理的だと考えています。もちろん、・傷つけること自体が目的でもないし、傷つけること自体が快楽だからではありません・友情や善意そのものを否定しているわけでもありませんただ、「信頼を取り続けて損をする可能性」より「切ることで確実に守れる安全や利益」を選ぶ判断も、現実的ではないかと思っています。そこで質問です。皆さんは、「自分が最優先であり、切ること・裏切ることは、人を信じるよりも合理的」だと思いますか?

1件の回答

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1224287

2026-06-03 08:30

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私の場合は、他者の役に立ちたいというのが代えの利かない重要な願望なので、最後のご質問の意味で「自分を最優先」にすると、自分のやりたいことができなくなるという論理矛盾に陥ってしまいます。というわけで、最後のご質問のような考え方は、私にとっては合理性とは真逆に位置するものです。



一方で、ご質問文に記載のある、人は自分の弱さに向き合うことができないからこそ、自分を正当化したり他人の弱さを拒絶したりする傾向にある、というのはとても正しく、かつ重要な考え方だと思います。



これらをまとめて考えると、自分の弱さ・欠点に向き合い、ある程度は許容しつつも改善していくこと、それによって他人の弱さにもある程度向き合えるようになることが大切なのだと改めて思わされました。(こうやって言葉にすると陳腐だなぁと自分でも感じますが、大事なことだからこそ、ずっと言われているからこそ陳腐に見えるのだと思います。)

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