(再編)仏教カテで、たまに「エネルギーが充満した状態(空)」というような表現があります。この「エネルギーが充満した状態」を「空」という表現の出所を教えてください。出所(出自)〜本の名前、提唱した方の氏名、宗派など、ご教示願えればと思います。(補足)私の空理解は、次のとおりです。私自身は、この「エネルギーが充満した状態」は、玉城康四郎氏の「業熟体」に近い概念と思っており、つまり、業が熟成して、今まさに現れようとしている「エネルギーが充満した状態」のことをイメージしており、世間一般的な「空」の概念とは少し違い、このエネルギーが充満した状態を空と言うのは分かりづらいと思いました。そのため、この「空=エネルギーが充満した状態」の出自が知りたかった次第です。【AIから・・・玉城氏について】仏教学者の玉城康四郎は、原始経典に記されている「業異熟(ごういじゅく、kamma-vipāka)」という概念を、独自の解釈に基づいて「業熟体(ごうじゅくたい)」という言葉で捉え直しました。 これは単なる過去の行いの結果(報い)という静的な意味に留まらず、無限の過去からあらゆる生命と交わりながら輪廻転生を繰り返してきた、今ここに実現している自分自身の全存在(エッセンス)を指します。 玉城による「業異熟(業熟体)」の主な特徴は以下の通りです。1. 「業熟体」への読み替え 玉城は、漢訳語の「業異熟」を自らの思索を通じて「業熟体」と呼び替えました。これは、業が単に熟して結果をもたらすだけでなく、その結果として形成された「人格的身体(生命のありよう)」そのものを重視したためです。【私の理解している「空」=「無常・苦・無我」について】私の理解では、諸法というのは”ものごと”であります。諸法というのは空であり、「物事のありのままの姿」や「真実のあり方」を示すものと理解しています。物事(諸法)というのは、私たちが眼(色・かたち)・耳(音)・鼻(匂)・舌(味)・身(温度、硬さなど)・意(心の働き、感覚や感情など)で物質と心の縁によって認識できるものが「物事」でそれが一切だと私は理解しています。つまり眼・耳・鼻・舌・身・意で認識できる物事は「無常・苦・無我」であり、それが実相(真実の姿)であり、物事は「無常・苦・無我」だから、「空」であると理解しています。物事が「無常・苦・無我」だから、原始仏教でも「空」(パーリ語でsunña、サンスクリット語でśūnya)と言っていると思います。眼・耳・鼻・舌・身・意で認識できる物事は、一瞬たりとも、同じではなく(無常)、自我〈私〉が命令してこのようになれと言ってそうなるものでないから、私がコントロールできるものでなく(無我であり)、コントロールできないから、思い通りにならない(苦)なのです。もし、感覚や感情がコントロールできれば、常に幸せな気持ちや悲しみの気持ちでいられます。また、もし、物事が移ろい変わらなければ、認識が変わらず、眼・耳・鼻・舌・身・意で次々と認識することはできなくなってしまいます。無常だからこそ、認識できたり、思考することができるのです。それが、真実のあり方(実相)かと思います。また、無常だからこそ、食べたものが消化して排泄されると言っていいでしょう。(補足2)上記の補足を整理した際、玉城氏の業熟体も空であれば、エネルギーが充満した状態も空で間違ってはいないのかなと思い始めました。ただ、「エネルギーが充満した状態=空」が、わかりづらいのではないかと、当初は思った次第で、今でもやはり、わかりづらいと思います。なお、玉城氏の仏教感については、様々な意見があることを申し添えます。