赤穂藩の成立: 三男の長重の子である浅野長直(ながなお)が、常陸から播磨赤穂へと転封され、赤穂藩主となりましたか?
>はい
本家が広島藩
広島藩浅野家初代長晟の父は、浅野長政です。長政は、はじめ織田信長、後に羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉に仕え豊臣政権の五奉行でした。秀吉の出世とともに長政も大名へと出世し、天正 11 年(1583)に近江(2万石余)、天正 15 年(1587)若狭小浜(8 万石余)、文禄 2 年(1593)甲斐府中(甲府・21 万石余)と
加増されていきました。秀吉の死去の後は、浅野家は徳川家康に従い、慶長 5 年(1600)の関ケ原合戦では徳川方(東軍)として戦ったことから、本家を継承した幸長(長政長男、長晟の兄)が合戦後に紀伊和歌山(37 万石余)を拝領したのです。幸長は慶長 18 年(1613)に亡くなりますが、跡を継いだ弟(長政次男)の長晟が元和 5 年 (1619)、安芸・備後を治めていた福島正則の改易の後に 42 万石余で広島に入りました。
分家
三次藩
寛永9年(1632年)初代広島藩主・浅野長晟の庶子で長男の長治が三次郡・恵蘇郡を与えられ立藩した。享保4年(1719年)4月、4代・長経は13歳(幕府への届出上、実際には11歳)で没し一旦は広島藩領となったが、同年11月、長経の弟・長寔に相続が認められた。しかし、長寔も翌、享保5年(1720年)10歳(実際には8歳)で没したため廃藩となった。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の正室、阿久里のお里方(実家)である。
分家
笠間藩→赤穂藩
笠間藩
元和8年(1622年)、永井直勝は古河藩へ移封となり、常陸真壁藩主であった浅野長重が真壁領を合わせて入封した。正保元年(1645年)、次代の長直の時、播磨赤穂藩へと移封した。
赤穂藩
正保2(1645)年、発狂した池田輝興に代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。国替えは、笠間城を無断修復した事をとがめられたためとする説がある。実際、浅野家が建てた藩庁を含む広大な笠間城の屋敷は取り壊されている。
長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、さらに城下町も造営した。転封と工事により財政は悪化した。池田家の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い、塩を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる。
慶安3年(1650年)、浅野家お預かりの大久保数馬・水谷山三郎の両名、喧嘩して双方絶命した。長直は江戸へ注進して検使が派遣され、死骸取捨の奉書(松平信綱・阿部重次連署)が発給された(慶安赤穂事件)。
寛文11年(1671年)、第2代藩主・長友は義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。
第3代藩主・長矩は天和2年(1682年)に幕府より朝鮮通信使饗応役に選ばれ、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。長矩治世では二度の血縁親族による刃傷事件があり(内藤忠勝と稲葉正休)、老中から赤穂藩主も謹慎を命じられている。
元禄14年(1701年)、長矩(内匠頭)も江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となった。長矩切腹を聞いた江戸の町人や浪人が、赤穂藩邸に忍び込んだり押し入り暴れる者が続出し、人数は四、五十人にも及んだ。大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸も暴徒の撃退に協力し、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』。書簡にも同様の内容がある)。
残務処理で、藩札の残額が九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老の大石良雄らが、債権者による混乱の対処に奮闘した(取り潰される藩のものとしては、額面の6割という高い率の銀正貨で回収している)。
広島藩の「浅野家文書」では赤穂藩の藩札回収に広島本家と三次藩からの多額の援助が記され、赤穂藩の断絶後に浅野本家は鴻池家からの借財が桁違いに増加している。一方、岡山藩の記録では赤穂の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩札を持つ備前商人が(赤穂藩としては、基本的には他領での流通を制限した事になっているが、実際には藩外にも流出した)「四分六分」の換金率(額面の4割)だと言われて赤穂城下で喧嘩同然の騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に、仕方なく池田家で肩代わりしたと記される。
藩札・債務処理後の残金を藩士に分配したが、生活資金としては満足できる額には程遠く、のちに赤穂義士が生活苦を綴った書簡や日記が現存する。
そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・浅野長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広の跡は嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家は、安房国で続くことになる。
浅野家改易から永井氏の入部までの期間は、龍野藩の脇坂氏が赤穂城を預かり、石原正氏と岡田俊陳が代官として赤穂を統治している。
赤穂藩騒動がたびたび起こった
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