大きく変わっていたことでしょう。特に大村益次郎が80歳以上元気で隠然と実力を発揮していたら、とてつもなく変わっていたと思います。
彼の天才肌の近代陸軍の構想や思想が帝国陸軍の骨の髄までしみ込んでいれば、理に合わない不合理さを徹底的に排除する合理精神が帝国陸軍のモットーになっていたのではと考えています。
実力に見合わない藩閥人事や士族のプライド意識など明治を覆った不合理な邪魔なものを排して強い軍隊をつくる人事評価や実戦第一の戦える組織を作りあげていたことでしょう。
江戸時代日本のモノづくりを支えてが発達していた大阪。地政学的に旧西南雄藩、アジア諸国に対処するためにも大阪を軍都にする構想半ばで倒れた大村ですが、軍備製造、物資兵站を重視した彼の構想によって、西南戦争、日清・日露戦の軍備・弾薬製造及び保管、兵士の日常品の製造、傷病兵のための医療体制とその広大な施設は建設されていき、陸軍の心臓として第二次大戦まで機能していきました。彼の構想は軍人の教育を重視することもにも注がれていました。兵学校・士官学校の教育構想で、医療従事者も含んでいましたが、それが大阪大学医学部の伝統に繋がっていきます。
大村の生前、彼と激しく論争した大久保利通は薩摩閥や士族に配慮した立場から大村の合理的で性急な改革を望みませんでしたが、結局大村が構想した通りの陸軍諸施設の構想を下敷きにするしかありませんでした。
大村益次郎が近代陸軍づくりを全うしていれば、その精神において軍の危うさに自らブレーキを掛ける組織ができたのではないかと夢想しています。
少なくとも不合理な藩閥人事の権化、山縣有朋と対峙したことでしょう。明治の政界の大きな流れは大村一人の力で激変することは無いにせよ、単なる精神論ではなく、合理精神や兵站の現実を重視した陸軍となり、「仲良し人事・なあなあ人事」の陸軍第一で政界を牛耳る軍閥政治にはなっていなかったのではないでしょうか。大村に賛同した実力者の大きなうねりができていたはずです。
大村は帝国陸軍の開闢を担い、彼の構想通りに動いた陸軍からは第一に崇拝される存在ですが、その合理精神は真逆な存在でした。
大阪城の近くにある大村の没した病院跡に満州事変勃発頃、大村を偲ぶ記念碑が建ちます。そこに軍・政財界賛同者が名を連ねています。寺内寿一・林銑十郎・東条英機・松岡洋祐、荒木貞夫・杉山元・畑俊六など数十人の軍の重鎮が名を連ね、小林一三・松下幸之助・鴻池善右衛門など軍需産業で潤う財界の重鎮たちも多数名を連ねています。彼の短期間でのその巨大な業績やその影響力の大きさを改めて見せつけられる思いがするものです。