徳川の先祖に乞食坊主がいたのですか

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2026-04-17 15:10

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家康の祖先は、徳阿弥と言う僧です。「乞食僧」「賤民(被差別身分)」と表現される場合もある。

徳阿弥は素浪人の石川孫三郎と諸国を流浪、三河国に碧海郡酒井村に流れ着き、村長の酒井忠則の娘にちょっかいをかけて男子が出来でその後、加茂郡松平郷領主松平信重(太郎左衛門少尉)の食客となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたとされており、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。その後、子孫が西三河に松平十六家を起こし、安城松平氏が家康に繋がる。



桶狭間の戦い後、家康は織田信長と通じて関白近衛前久に三河守の任命を求める。

このとき正親町天皇は朝廷の臣下(朝臣)の源平藤などの家柄ならともかく、加茂神社の荘園領主神官の松平氏が、三河守に任じられた先例のない申請に対して躊躇し不信を述べた。そこで近衛前久は吉田兼右命じて徳阿弥の系図を作らせた。

河内源氏上野国新田荘新田義重の四男義季が新田荘得川(徳川)に住して得川を称した。義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し三河守となった。その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である。満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が得川親氏という。親氏は南北朝時代に南朝新田軍に従軍してで北朝鎌倉公方の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥と称したとされる。

この言い分で正親町天皇は家康一代限りで徳川姓を認めた。秀忠が徳川を名乗るはその後の天皇で、家康に子孫でも三位(公家)以上の官位に付かなければ徳川を名乗れなかった。

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