おっしゃる通りだと思います。
如何に戦闘・謀略に優れようとも、
一族や仲間などに信頼され、纏める力がなければ、名門とはいえ、一介の国人領主に過ぎなかった毛利元就が、戦国屈指の大大名になる事など出来なかったと考えます。
なにしろ毛利の領土は元々3,000貫(五公五民の場合 約12,000石)に過ぎなかったと言われています。
ところが、元就の晩年には(実高ベースでは)300万石近くにもなっていました。
つまり有力大名の中では、最小クラスの領土から出発しながら、事実上の天下人たる織田信長に次ぐ大大名にまでのしあがった事になりますし、
単純計算で250倍にも領国を増やした事になります。
当然、毛利元就は自身より強大で格上だった大名達に勝利した上で、支配下に入れたという事になります。
それには確実に不利であっても強敵に共に立ち向かってくれる家臣や仲間が居たはずなのです。
しかも、甲陽軍鑑によると、毛利元就は、中国だけに収まる存在ではなかったと書かれています。
曰く
「毛利元就は、中国・四国・九州で最強の大将。中国をほぼ制圧し九州・四国にも威を振るい、畿内の三好長慶も恐れて配下の様に振る舞っている。」
とあります。
正に中央政界にまで影響を及ぼす西国の王です。
もっとも、甲陽軍鑑は信用ならないと言われる原因の通り、
甲陽軍鑑の作者は、その毛利元就より、武田信玄の方が遥かに上だとも書いていますが…
ともかく、質問者様がおっしゃる通り、毛利元就は、ただ勝利や謀略で強大化した大名ではなく、
周囲を味方に付け、纏める事で強大化した大名だと言えると思います。
それもそのはずで、
軍学者である大江家傍流である毛利には、六韜三略に加え、
日本最古の兵法書「闘戦経」が連綿と受け継がれており、中国の兵法は「兵は詭道(騙し合い)なり」とあるが、日本では「鋭気や天道に沿う事」が大事だ。
といった事が書かれています。
また、毛利元就が息子達に出した手紙を簡単に纏めますと、
謀略を駆使しながらも、謀略家と思われないよう振る舞えと指示しています。
元就曰く、無法地帯となった戦国時代では、
残念ながら、毛利家の当主・幹部として、
常に謀略を警戒し、常に謀略を仕掛けなければ生きていけないというのですが、
それでも家臣や周囲の武将には、謀略家だと思われてはならない。
凡庸と思われても良いから、誠実で人に好まれるよう、安心して仕えられる人物として振る舞え。
というのです。
「馬鹿果報」
愚かな人は他人から憎まれないので、かえって幸運を得る。
といった意味ですが、毛利元就は、それを恣意的に作り出したのです。
もちろん愚かなのは表面だけの事で、裏では六韜三略を駆使し、防諜も謀略も密かに行っていた訳ですが…
以上の通りで、おっしゃる通り、毛利元就が中国地方随一の大大名になったきっかけは、厳島の合戦に勝った事より、それを成し遂げられるほど、家臣達や周囲から信用と協力を得ていた事だと考えます。
ちなみに、毛利が周囲を纏められた背景には、元就の兄であり、弱冠24才で亡くなった毛利興元が組織した9人の国人が纏まった「安芸国人一揆」があります。
安芸国には強力な守護がいなかった為、山名・大内・尼子の本国の分国として本国の都合次第で、利用される傾向にありました。
それを防ぐ為に作られた9人の国人の(対等な?)一揆(同盟)という事でしたが、
安芸最大の分郡守護 武田や毛利領国近隣の国人が含まれておらず、
また毛利が勢力を持つ備後の国人4人も引き入れる等、
徐々に毛利主導になり、それは興元が亡くなり、元就になっても加速し、毛利元就は、安芸の分郡守護 武田を滅ぼし、小早川・吉川を併呑し、備後や石見の一部にも勢力圏を持つ実質上の安芸守護格となりました。
その上で、毛利元就が謀略・軍略を尽くしたからこそ、数ヵ国を支配する大大名だった大内の後継者 陶晴賢を厳島で滅ぼす事ができた。
極めてリアリズムに富んだ人物、もしくは家系だったと考えられるのです。
そのリアリズムは徹底しており、多くの大名が先祖の功績を盛る中で、
毛利は元就の厳島の戦いすら、本当に元就の謀略で勝利できたのかを検証し、疑義を挟んでいるのです。
本当の事が判らなければ、次の戦いの糧にならないからだという論法です。
こちらもおっしゃる通りで、現代に通じる考えだと思います。
マイナス点としては、子孫たる毛利輝元も毛利敬親も、大きな役割を担った割に、表面の振る舞い通りに、凡庸・無能と言われてしまっている事でしょうか?