英語教育の現場を眺めていると、どうも気になることがあります。授業でも、教材でも、テストでも、私たちはいつの間にか「正しく訳せたか」「文法的に合っているか」という確認に、多くの時間を割いているように思えるのです。もちろん、それらが不要だと言いたいわけではありません。ただ、その確認作業があまりに前に出てしまうと、言葉に触れた瞬間に立ち上がるはずの、曖昧で、まだ名前のついていない感覚や、頭の中にふっと浮かぶイメージが、置き去りにされてしまうことがあるのではないでしょうか。教える側も、学ぶ側も、「説明できること」「正解が用意されていること」に無意識に安心してしまう。その結果、言葉が生み出す小さな違和感や、思わず引っかかる感じ、少し可笑しく感じるズレのようなものを、味わう余白が、だんだん削られていく。そんな場面を見ていると、英語を学ぶという行為そのものを、一度、言葉で説明する前の段階まで引き戻して、考え直してみたくなるのです。それで、認識や想像はメタ言語でないといけないと感じるんです。私でなくアインシュタインが「考える際、言葉は邪魔なる」と言ってます!大切なのはイメージですよ。次に、そのイメージがつくり出すドラマを、どう感じるか?もうこれだけで十分な気がします(笑)「英語ができなかったら、みんなに置いてかれるぞ!」こんなイメージはどんな働きをするでしょうか?プラスに働くこともあるでしょうが、マイナスに働くことの方が多いのではないでしょうか?「英語ができたらモテる!」これもダメです(笑)「ああ、英語って面白い!」でないと。\u0026quot;I want a watch.\u0026quot;(欲しい)と\u0026quot;He wants a leg.\u0026quot;(欠損)の違いを面白い!と思わないと(笑)\u0026quot;I want to clean the floor.\u0026quot;と\u0026quot;The floor wants cleaning.\u0026quot;の違いも。地味ですが(笑)そこで質問ですが、私たちは英語を教えたり学んだりするとき、つい「正しく訳せたか」「文法的に合っているか」というところに意識を寄せすぎてはいないでしょうか。本来、言葉は先に意味が立ち上がり、そのあとで、説明のために言語化されるもののはずです。にもかかわらず、最初から答え合わせのあるメタ言語の世界に閉じ込めてしまってはいないか。たとえば、\u0026quot;want\u0026quot; が「欲しい」だけでは終わらず、主語が変わると急に身体的な欠損を匂わせたり、床が突然「掃除されたい顔」をし始めたりする、あの妙な感じを、ちゃんと面白がる余白を残しているでしょうか?そこで質問ですが、私たちは英語を教えるとき、訳語やルールを与える前に、その表現が生み出すイメージや小さな違和感を、学ぶ側が味わう時間を、本当に用意しているでしょうか?๑๒/๒๔

1件の回答

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1040440

2026-07-25 15:40

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ご質問の要旨を踏まえると、それはまず「英語」ではなく、日本語、すなわち「母語教育(国語教育)」の文脈で考えるべき課題なのだろうと感じました。

母語において、筋道を立てて物事を語り、問いを的確に発する力を身につけること。まずはそれが土台にあり、そのうえで習得言語の学びが成立するのだろうと考えています。

おっしゃる通り、認識や想像はメタ言語的な営みです。しかし、他者とコミュニケーションをとるためには、どうしても共有可能な言語体系が必要です。

脳内イメージを言語化し、論理として外部に展開する力こそが「母語教育」の本質的な目標であり、習得言語教育は、異文化の存在を認識しながらコミュニケーションの相手を拡張する術を学ぶ営みとして位置づけるべきです。

教科名として「国語」「英語」と分けているため、私たちは「国語教育とは」「英語教育とは」と個別に捉えがちです。しかし本来は、それらを汎化した「言語教育」という枠組みがまず存在し、その中に「母語教育」と「習得言語教育」が並列に含まれていると理解するのが適切でしょう。

繰り返しになりますが、母語で「語る・問う」力が十分に育っていない段階で、習得言語によってその力を育成することには大きな困難が伴います。よって、まずは母語教育の完成度を高めることが、あらゆる言語教育の出発点であると考えます。

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