文七元結は、もともと信州飯田で生まれた元結のブランド名です
元結とは髷を結うための実用品であり、江戸時代には品質や産地によって銘柄が知られていました。その中でも「文七元結」は名の通った商品名として流通していたわけです
一方、落語の『文七元結』は、そのブランド名を前提にした三遊亭圓朝による明治期の創作です。ここが重要な点ですが、圓朝がこの噺を作った時代には、すでに髷を結う文化そのものが急速に廃れています
つまり「元結」という実用品は日常生活から姿を消しつつある一方で、「文七元結」という名前だけは、言葉として記憶に残っている状態でした
圓朝はこの時間差を巧みに利用します
噺の中では、文七の身投げ未遂、左官屋長兵衛の情け深い振る舞い、金のやり取り、娘との縁談といった、人情噺として十分に成立する物語が丁寧に積み重ねられていきます
聴き手は完全に「いい話」を聞いているつもりになる
そして最後に「これが文七元結の由来でございます」と締めくくられた瞬間、聴衆は初めて引っかかりに気づく
「ああ、なるほど……いや、そんなわけがあるか」と
ここで噺は、人情噺の顔をした落とし噺へと反転します
つまり『文七元結』は、感動で終わる噺ではなく、「商品名の由来を人情話で説明する」という形式そのものが冗談になっている構造を持っています
当時の聴衆にとっては、「名前だけは知っているが、実物はもう使わない元結」という距離感があったからこそ、この落差が笑いとして成立したのです
現代に置き換えるなら、
永代橋で身投げした布羅田(ぷらだ)という人物が助けられ、恩人の娘と結婚して服屋を始めた、これがプラダの由来です――
と語るようなものだ、と言えば分かりやすいでしょう
元結の「文七元結」と、落語の『文七元結』の関係は、史実の説明ではありません
すでに実用から切り離されたブランド名を素材にして、「由来話そのものを疑似的にでっちあげる」という、圓朝らしい知的なギャグであり、同時に明治という時代感覚を前提にした高度な仕掛けなのです