クリスチャンにとって、平和運動や労働運動、政治活動は、たとえ合法的なものであってもヤコブ1:20にいう『神のみ心の実現とは無関係な人の怒り』でしかない、と信じる人もいるのでしょうか?もしそのような運動に熱心に取り組んでいた人が救われたら、その運動と手を切らなければ救われたとは認められないのでしょうか?

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1240786

2026-03-18 15:25

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結論を先に言えば、クリスチャンの中でもプロテスタントの信徒の場合は「信仰義認」の福音を信じているので、社会運動や政治活動といった行為をするとかしないとかいうことと「救い」の問題とは直結されないと思います。

クリスチャンに限らず、宗教者というものは本来、自我のはたらきを抑制することで日常の世俗生活における意識レベルを超えて、広い意味での救いの体験を得るものです。

一方、平和運動や労働運動、政治活動に熱心な人々は、自分たちの活動は社会や国家といった集団ないしは共同体という公共の利益・福祉を実現することであるから、基本的に個人の救いを求める宗教なんぞよりも崇高な行為であると思われています。たしかにそこで発現されるのは「怒り」だけではないと思うし、ひとことで「怒り」と言ってもエゴに満ちた感情だけではなく、いわゆる「義憤」というものもあるので、ヤコブ1:20を根拠に否定し去るほど単純なことではありません。

一般の宗教者も、日頃から人権運動や平和運動などの政治的活動や社会問題への取り組みを決心にしている人々に対してリスペクトはあり、宗教がともすれば個人主義に陥る傾向があるということで、自分たちには欠けているものを持っているという認識はあると思います。また、だからこそコンプレックスのようなものも動機となって、路上生活者支援の炊き出しボランティアに参加する人たちも少なくないわけです。しかし同時に、彼らの民主的活動にもヒューマニズムの限界という欠陥を見ています。特にキリスト教においては人間が原罪を抱えていることによってエゴイズムや争いごとから免れ得ないという性悪性を見ており、実際に社会運動や政治活動の団体にはヘゲモニー争いや内ゲバ的な暴力問題などがつきまとうので、その点で、宗教者が社会運動や政治活動に関わる場合は、そのようなヒューマニズムの限界をクリアーして、なおかつ救いの体験を個から種や類へと展開し得るというビジョンを立てます。

日本のいわゆる鎌倉新仏教の中でも日蓮系が積極的に政治活動に関わってきました。浄土真宗などもキリスト教のプロテスタント団体と共に靖国問題や同和などの人権問題に積極的に関わっています。

しかしそのような社会的、政治的な活動への関わりが宗教的救済の要件になったり、逆に支障になるといったことは、すくなくとも「信仰義認」の福音を信じるプロテスタントのクリスチャンにおいては関係ないことです。

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