こんばんは
はい、孫文も晩年にはソ連およびコミンテルンに強く依存していました。
当初、孫文は欧米列強や日本からの支援を期待していましたが、思うような協力が得られず、相次ぐ軍閥との戦いにも苦戦していました。
その状況を打破するために選んだのが、ソ連との提携でした。
孫文とコミンテルンの関係には、主に以下の側面があります。
1.連ソ・容共路線の確立
1923年、ソ連代表ヨッフェと共同声明を発表し、ソ連の支援を正式に受け入れることを決めました。
翌年には第1次国共合作を実現させ、ソ連と連携し、共産党を受け入れる(連ソ・容共)という三大政策を掲げました。
2.組織と軍事の強化
コミンテルンから派遣された政治顧問ボロディンの助言を受け、中国国民党をソ連共産党のような強力な組織へと改組しました。
また、軍事顧問の指導や資金・武器の援助を受け、革命軍の幹部を育成する黄埔軍官学校を設立しました。
3.あくまで「手段」としての提携
孫文はソ連の支援を熱望しましたが、中国に共産主義制度をそのまま導入することには否定的でした。
あくまで、中国の統一と独立という目的を達成するための現実的な手段として、コミンテルンの力を利用したという側面が強いです。
結果として、この依存ともいえる提携によって国民党は勢力を急速に拡大させましたが、孫文の死後、共産党との主導権争いが激化し、最終的に蒋介石による共産党追放の上海クーデターへと繋がることになりました。