『保元物語』という鎌倉時代前期に成立した軍記物があります。
これによると、崇徳上皇は讃岐に配流され、そこで後世のためにと「大乗経」を写経し、これを鳥羽院の墓に納めたいと都に送ったところ、後白河天皇がこれを許さずに突き返したと記されています。
この対応に激怒した崇徳院は、「此経を魔道に廻向して、魔縁と成って、遺恨を散んぜん(この経を悪魔が住むという魔道に寄進して、我が身は悪魔そのものになって恨みを晴らそう)」と言って、ついには生きながらにして天狗になったというのです。
じっさい、崇徳上皇が讃岐で亡くなったあと、後白河上皇の周辺では不幸、不吉な出来事があいつぎました。「これは崇徳上皇の祟りにちがいない」と都人は恐れおののき、平治・治承・寿永の乱は崇徳院の祟りによるものだと信じられたのです。
後白河は精神的に追い詰められて保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められました。また、怨霊を鎮めるために崇徳院廟が建てられ(京都の祇園に現存)、讃岐の御陵の近くに建てられた頓証寺にも朝廷の保護が与えられました。
『保元物語』は広く流布したために崇徳院が怨霊となって祟った話はよく知られていました。江戸時代になると『保元物語』をネタ元として『雨月物語』や『椿説弓張月』などにも書かれ、浮世絵にも描かれます(添付画像)。
こうして崇徳院は菅原道真、平将門とならんで「日本三大怨霊」の1人に数えられるようになりました。
なので戦前からよくよく知られていますよ。