毛利元就について。毛利元就は一代で中国地方一の大大名になりましたが、この「中国地方」って令制国制での山陽道、山陰道に当たる国の総称ってことだと勝手に思ってたんですけど認識あってますか?それとも、今の県制(この言い方があってるかわかんないですが、、、)での中国地方ってことですか?

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1034680

2026-06-25 09:40

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どちらかというと、令制国制での山陽道・山陰道より、現在の県制度(八地方区分)にリンクしている。近いと言えます。

ご存知の通り「中国」地方という呼称は、古代、畿内を中心に令制国を「近国(近距離の国)」「中国(中距離の国)」「遠国(遠距離の国)」に区別した事から来ています。

そして、以下の経緯から、畿内から中距離の国の中でも、特に現在の「中国地方」を中国と呼ぶようになったようです。

現在の中国地方が、中国と呼ばれ始めたのは平安時代からと言われています。
そして 1349年に「師守記」「太平記」等には、足利直冬が「備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡」の8カ国を成敗する「中国探題」になったと書かれており、
「祇園執行日記」では1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国」したと書かれています。
1354年にも「永青文庫文書」で、将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じたと書かれています。

その経緯から、元就と同時代の信長公記でも、毛利元就・輝元領の事を「中国」と何度も呼んでいます。

更にそれらをベースに明治以降に「八地方区分」(県制度)が生まれた訳ですから、毛利元就の中国と、現代の「八地方区分」がリンクするのです。

ちなみに、明治以降の事ですが、畿内東方の「中国(中距離の国)」は、中部と言われています。

さて、令制国制での山陽道、山陰道との違いは、
中国の名の由来から見て当然ではありますが、
山陽道、山陰道でも、畿内の隣国である播磨・丹波などの「近国(近距離の国)」は、中国には含まれない事です。

こちらも、明治以降に命名された、近畿(畿内に近い)ですが、
信長と同時期の宣教師によると、播磨・丹波が含まれるかどうかは不明ですが、畿内近郊のことを近畿と呼んでいたようです。

以上の通りで、毛利元就の「中国地方」は、令制国制での山陽道、山陰道に当たる国の総称というより、今の県制度(八地方区分)に近い事になります。

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