どちらかというと、令制国制での山陽道・山陰道より、現在の県制度(八地方区分)にリンクしている。近いと言えます。
ご存知の通り「中国」地方という呼称は、古代、畿内を中心に令制国を「近国(近距離の国)」「中国(中距離の国)」「遠国(遠距離の国)」に区別した事から来ています。
そして、以下の経緯から、畿内から中距離の国の中でも、特に現在の「中国地方」を中国と呼ぶようになったようです。
現在の中国地方が、中国と呼ばれ始めたのは平安時代からと言われています。
そして 1349年に「師守記」「太平記」等には、足利直冬が「備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡」の8カ国を成敗する「中国探題」になったと書かれており、
「祇園執行日記」では1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国」したと書かれています。
1354年にも「永青文庫文書」で、将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じたと書かれています。
その経緯から、元就と同時代の信長公記でも、毛利元就・輝元領の事を「中国」と何度も呼んでいます。
更にそれらをベースに明治以降に「八地方区分」(県制度)が生まれた訳ですから、毛利元就の中国と、現代の「八地方区分」がリンクするのです。
ちなみに、明治以降の事ですが、畿内東方の「中国(中距離の国)」は、中部と言われています。
さて、令制国制での山陽道、山陰道との違いは、
中国の名の由来から見て当然ではありますが、
山陽道、山陰道でも、畿内の隣国である播磨・丹波などの「近国(近距離の国)」は、中国には含まれない事です。
こちらも、明治以降に命名された、近畿(畿内に近い)ですが、
信長と同時期の宣教師によると、播磨・丹波が含まれるかどうかは不明ですが、畿内近郊のことを近畿と呼んでいたようです。
以上の通りで、毛利元就の「中国地方」は、令制国制での山陽道、山陰道に当たる国の総称というより、今の県制度(八地方区分)に近い事になります。